「っの…!阿呆っ!」
大きな、怒声が響いて。
一太郎の小さな肩が、びくりと震える。
いつもならすぐに、その頭を撫でて、安心させてくれる兄やは、肩を怒らせたまま、ぴしゃり、荒く障子を閉めて出て行ってしまう。
変わりに、怒らせた当人が、優しく優しく、一太郎の頭を撫でてくる。
その口元には、怒鳴られたと言うのに、ひどく嬉しそうな微笑が浮かんでいて。
一太郎はいつも、小首を傾げてしまう。
ふと、昨日の屏風のぞきの言葉を思い出して。
くいと、湯飲みを差し出してくれる仁吉の袖を、引く。
「ねぇ仁吉」
「何です坊ちゃん」
暖かな湯気を立てる飴湯を受け取りながら。
一太郎は、真っ直ぐに、仁吉を見上げた。
「佐助はね、仁吉のこと、嫌いじゃあ、ないんだよ」
「え?」
予想外の言葉だったのか、珍しく、少し驚いた様に目を見開く兄やに、一太郎は安心させるように、一生懸命、言葉を紡ぐ。
「あのね、いつも 仁吉ばっかり 怒るけどね。佐助は、仁吉のこと、嫌いじゃあ ないんだって」
「へぇ?どうしてそう思うんですか?」
「うん。昨日、屏風のぞきにね、『どうして、佐助は仁吉にばかり、荒い物言いをするのかしら』って聞いたら『そりゃあ、仁吉さんのことが、好きだからだよ』って、教えてくれたの」
「ほぅお」
屏風のぞきの名前が出た途端、仁吉の視線が、一瞬、派手な屏風に流れて。
屏風の中で、市松模様が、身構える。
けれど、懸命に、言葉を紡ぐ一太郎に、すぐに視線は戻された。
「だからね、佐助は、仁吉のことが、好きなんだよ。…よかったね、仁吉」
「えぇ。…それにしても、坊ちゃんをこんなに心配させるなんて…佐助は悪い兄やですねぇ」
にこにこと、上機嫌に笑いながら。
頭を撫でる仁吉を、一太郎が、少し不安げな瞳で、見上げる。
「仁吉は、佐助のこと、好き?」
「えぇ。大好きですよ。とぉっても」
その言葉に、一太郎が安心したように、笑う。
「我も、佐助と仁吉がだぁいすき」
「ありがとうございます」
無邪気に笑う一太郎に、仁吉の目元も、和む。
その、小さな頭を撫でながら。
言われた言葉に、つい、笑みが零れるのを、押さえ切れなかった。
「ねぇ佐助」
夕餉の折。
一太郎には、常と変わらぬ優しい笑みをくれるけれど。
仁吉とは相変わらず視線も合わせようとしない佐助に、一太郎は戸惑うように、二人の兄やの顔の間で、視線を言ったり来たり、彷徨わせていたけれど。
昼の、仁吉の言葉を思い出して。
思い切って、杓文字で飯をよそってくれるその横顔に、声をかける。
「どうしました?」
返って来るのは、相変わらずの優しい笑み。
手渡された、こんもりと盛られた白飯に、一瞬、たじろいでしまったけれど。
すぐに、気を取り直して。
器用に、茶碗から目を逸らすと、じっと、佐助を見上げる。
「あのね、佐助は、仁吉のことが、好きなんでしょう?」
「…え……っ?」
唐突過ぎる言葉に、一瞬、茶椀を差し出す手が、固まる。
すぐに、余計なことを吹き込んだとばかりに、仁吉を睨みつける佐助に、一太郎は不安そうに、眉根を寄せた。
「佐助、仁吉が嫌いなの?だから、いつも仁吉ばかり、怒るの?」
「え、…いや、坊ちゃん、そうではなくてですね…」
今にも泣き出しそうな瞳で、見上げられて。
佐助が困った様に、一太郎の顔を、覗きこむ。
少し、うろたえるその様に、仁吉から小さく、苦笑が漏れた。
けれど、それを睨みつければ、一太郎の表情は一層、曇ってしまって。
佐助は慌てて、安心させるように、笑みを浮かべる。
「坊ちゃん。佐助は別に、仁吉が嫌いで、怒っているわけではないんですよ」
「じゃあ、好き?」
苦笑いで、頭をなでれば、間髪いれず。
小首を傾げて、覗き込んでくるのに、一瞬、詰まる。
その眼は、決して、逸らされる事はなくて。
幼いけれど、強い光を宿した瞳に、佐助はとうとう、根を上げた。
「そうですね。…坊ちゃんの言うとおりです」
「佐助は、仁吉が好きなんだよね?」
何度も、確認してくる一太郎に、いい加減、気恥ずかしくなりながら。
苦笑いで頷けば、安心したように笑う幼子に、佐助の目元も、和む。
「じゃあ、ちゃんと言わなきゃ、駄目だよ」
「え…?」
唐突に窘められて。
僅かに、目を見開けば、一太郎がその小さな胸を逸らしながら。
どこか得意げに、笑う。
「だって、ちゃんと口で言わなきゃあ、伝わらないよって、おっかさんが言ってたもの」
「…坊ちゃん、それは…」
「好きなんでしょう…?」
また、不安げに見上げられて。
敵う、訳がない。
「好きですよ。仁吉も、坊ちゃんも」
「我にじゃなくて、仁吉に言わなきゃ、駄目なんだよぅ」
焦れたように佐助の袖を引く幼子の箸は、止まったまま。
このままでは飯は冷めてしまい、そうなれば、ただでさえ食の細いこの子は、もっと食べなくなってしまう。
何より、いつまでたっても、食が進まない。
それは何より、困ったことだ。
ちらり、視線を相方に投げても、相変わらず、小僧らしからぬ笑い顔を貼り付けているだけで、助け舟を出す気は、毛頭ないらしい。
きゅわきゅわと、成り行きを見守る鳴家たちにまで、心配顔で見上げられて。
どうにもこうにも、立場が悪かった。
「……好きだよ仁吉が」
どうして今更こんな事を、それも一太郎の前で言わなければならんのだと、気恥ずかしさを通り越して、腹立たしく思いながら。
真正面に座る、仁吉に、早口に告げる。
「あたしもだよ」
なんて、ひどく優しい目をして言うものだから。
思わず、腹立たしさが、気恥ずかしさに、飲み込まれて。
かっと、耳まで熱くなるのが、分かった。
「はい!仲直りぃ」
不意に響いた、無邪気な声に顔を上げると。
満面の笑みで、笑う一太郎がいて。
きゅっと、袖を握られる。
「我は、仁吉も佐助も、みぃんな、大好き」
それは、ひどく嬉しそうな笑い顔で。
思わず、顔を見合わせた、仁吉と二人、浮かべるのは愛しげな微笑。
「ありがとうございます。佐助も仁吉も、ずぅっとずぅっと、坊ちゃんが大好きですよ」
ふうわり、まだ柔らかな髪をなでれば、「えへへ」と、一太郎がはにかむように、笑う。
その膝にはころりころり、転がり出てきた鳴家たちが、上り始めていた。
「坊ちゃん、我らは?我らも坊ちゃんがだいすきですよぅ」
「我も、我もっ」
「こら、お前たち!坊ちゃんが飯が食えないじゃないか。…で?坊ちゃん、あたしをお忘れじゃあないかい?」
鳴家を払い除けたと思ったら。
屏風から覗く派手な顔を、仁吉がぺしりと叩く。
「お前も邪魔だよ。…坊ちゃん、そろそろ本当にご飯が冷めてしまいますよ」
仁吉に促されて、慌てて、膳に向き直る様を、微笑ましく見守りながら。
ふと、視線を上げれば、此方を見つめる仁吉と、目が合った。
小首を傾げれば、その唇が、小さく、動く。
「随分坊ちゃんに心配掛けてたみたいだねぇ」
「お前が調子に乗るからだろ」
「悪かったって」
小声で、交しながら。
互いに漏れるのは、苦笑い。
そっと、視線で交し合って。
必死に、箸を動かす幼子を、見つめる。
「もう、こんなこと、無いようにしなけりゃあね」
「うん。この子に心配掛けちゃあ、いけないからね」
思い出すのは、先程の笑い顔。
二人、漏らすのは、同じ色の微笑。
「大好きだもの。ずうっと」
「ずうっと、みんなね」
視線の先、鳴家たちと戯れる、一太郎。
無邪気な笑い声が、上がる。
「みぃんな、みぃんな、大好きだよぅ」