「痛…っ」

 不意に走った、小さな痛みに、一太郎は顔を顰めた。
 そっと指先で唇に触れれば、微かに血が付いていて。
 かさりとした、乾いた感触に、もうそんな季節かと、軽くため息が零れる。
 思わず、舐めてしまいそうになるのを、細く白い指先に遮られ。

「あぁほら…ちゃんと薬を塗って下さらないからですよ」

 いいながらもう、仁吉はその指先で一太郎の唇に油薬を塗りこんでいて。
 蜜蝋でできたそれは、ほんのりと甘い香りを運んでくる。
 かさついた不快感は途端に引いていき。

「だって気づかなかったんだもの…」
「あ、そのまま口を開けていて下さい」

 一太郎の言い訳には取り合わず、仁吉は口角にまできっちりと油薬を塗りこんで、余ったそれを、今度は一太郎の指先に塗り始めた。

「手は特に荒れてないみたいですね。…これからは空気が乾きますから、お店での仕事は控えて下さいましね」
「女子じゃああるまいし…」

 溜息を零しても、仁吉には届かぬようで。 
 「乾いたら塗って下さい」と、油薬を置いてお店へと戻って行ってしまった。
 一人残された縁側にぼんやりと座り、庭を眺める。 
 天気は良くて、空は抜けるように青い。
 さらりとした風は、まだ、冬のそれとは程遠く。
 
「出かけてみようか…」

 一太郎の呟きに、屏風の中から伸びた腕が、鳴家を二匹ほど投げ寄越してきた。



 一瞬、視界の端を、鮮やかな紅が横切ったような気がして。
 覗き込んだ川の水面、思わず、声が漏れた。

「うわぁ…綺麗だねぇ…」
 
 応える様に、袖口からも小さなしわがれた歓声が起こり。
 その目の前をまた、一枚の色づいた木の葉が、さらりゆらりと流れて行く。
 時に円を描いて、ゆらんと沈んだかと思えば、また、浮かんできたり。
 澄んだ水面を彩る鮮やかな秋のそれに、目を奪われていたとき。

「若だんな?」

 不意に響いた声に、鳴家たちはさっと姿を隠し。
 顔を上げれば、松之助が咎めるような眼差しで立っていて。
 
「まだ病み上がりだというのに外出をなさっては…」
「風邪を引いたのはもう随分前だよ…」

 溜息交じりに苦笑を向けても、松之助の愁眉は開くことが無い。
 聞けば外出の用は、もう済んだとのことで。
 水面を滑る、少し冷たい風が、二人の頬を撫でた。

「体が冷えてしまいますよ」

 言いながら、そっと手を取られ、冷たかったのだろう、松之助の眉尻が、一層心配げに下がる。
 己の手を包み込む松之助の手は、ひどく温かくて。
 
「帰りましょう」

 離れかけたそれを、頷きながら握り返して、阻む。
 一瞬、戸惑うような視線を向けてくるのに、微笑みを向ければ、困ったような笑い顔が返ってきて。

「痛…っ」
「兄さん?」

 不意に、軽く顰められたそれに、怪訝に想い、覗き込めば、松之助の唇に、微かに血が滲んでいて。
 先の一太郎と同じように、切れたのだろう。
 
「大丈夫?」
「大丈夫ですよ。舐めとけば…」
「駄目だよ」

 そっと、指で遮り、懐から出すのは、先程持たされた油薬。
 軽く指先に掬いながら、口を開く。
 いつも散々、兄やに言われた言葉を、繰り返す。

「舐めたらね、余計に乾いて酷くなってしまうんだよ」
「あの…」

 何か言い掛けるその唇に、仁吉がしてくれたのと同じように、油薬を掬った指先を滑らせる。
 指先に触れる柔らかな感触に、掛かる吐息に、僅か、胸が騒ぐ。
 
「大丈夫ですから…」
「あ、そのまま口を開けていて」

 仁吉と同じように、取り合わずに、口角にまできっちりと薬を塗りこんで、ようやっと、一太郎は身を離した。
 見れば、松之助の目元が、微かに朱く。
 思わず、笑みが零れ、余った薬を手指にと思い、捕らえた指先に、一太郎は思わず、目を見開いた。

「これ…痛い?」
「え…?あぁ…仕事ですからねぇ」

 零された苦笑に、一太郎の目が一層、見開かれる。
 冬になれば、おくまが手荒れに顔を顰めるのは何度も見てきたけれど。
 仁吉も佐助も、今思えば、妖故にだろう。
 そんなものとは無縁だったから。
 こんな風に、痛々しくひび割れ、血の滲んだ指先など、初めてだった。      

「兄さんっ」
「…はい?」

 存外、大きな声が出た。 
 きつい表情をしていたのだりろう、怪訝そうに小首を傾げるのに、向けるのは意思を込めた強い眼差し。

「夜、眠る前に必ず、私の部屋に来て」
「…はぁ」

 気圧されるように頷くのを確認して、一太郎は足早に家路を急ぐ。
 松之助が慌てて、その後を追った。



「良いですよ。…女子じゃああるいし、平気です」
「駄目だよ。こんなに荒れて…私は心配で眠れないよ?疲れてしまうよ、倒れてしまうよ?」

 そう言われれば、松之助は黙るしかなくて。
 たかが手荒れだ、平気だと、何度言っても、義弟は引いてくれる気配は無い。
 思わず、内心、零すのは溜息。

「沁みるよ」
「痛ぅ―――っ」

 唐突に指先に走った鋭い痛みに、思わず手を引きそうになり、何とか堪える。
 仁吉手製なのだろう、随分な色の傷薬に、情けなくも、じわり、生理的な涙が滲む。
 
「痛いけどね、この薬はよく効くから…」

 宥めるように言葉を掛けながら、一太郎は手際よく、痛々しく開いた傷口に薬を塗り込めていく。
 その度に走る痛みに、松之助はびくりと、身を震わせた。
 もういいと、振り払うことは簡単だけれど。
 真剣に己の指先を見つめる一太郎に、結局、何も言えなくて。

「よし…これで…」

 その言葉を聞いたときには、指先で交錯する痛みに、頭の芯が痺れた様になっていて。
 思わず、安堵の息を吐いた程だった。
 けれど掴まれた手は、そのままで。
 
「若だんな?」

 小首を傾げるその視線の先、取り出されるのは昼の油薬。
 高直であろうそれに、何度目か分からぬ遠慮の言葉を口にしたけれど。
 「おくまたちも使ってるから」と言われ、先の奉公先では、同僚は冬になれば、手指を曲げる度に悲鳴を上げるほどだっと言うのに、やはり大店は違うのかと、眩暈にも似たものを感じた。
 その唇に、不意に、柔らかな指先が、触れる。
 顔を上げれば、ひどく近い距離から、自分を見上げる一太郎と目が合って。
 昼のそれと同じように、余った薬を、荒れた唇に塗られ、唐突に近くなった体温に、知らず、目元が熱くなるのが分かり。

「わ…若だんな…っ」
「うん?…あぁそう、そのまま口を開けていてね」

 けれど一太郎は、松之助の戸惑いなど、気付かぬ様で。
 その口の端に乗るのは、どこか楽しげな笑み。 
 ふんわりと、鼻先を掠める甘い匂い。
 口角にもきっちりと塗りこんで、ようやっと離れた体温に、松之助はほっと、安堵の息を吐く。
 それでもどこか、名残惜しさを感じる自分に気付き、また、目元が熱くなる。
 その間にも、手指には油薬が塗り込められ、くるくると晒しが巻かれていき。
 
「そんな…大袈裟ですよ」
「うん…けどね、こうやって薬を塗った上から晒しを巻いて寝るとね、治りが早いから…」

 寝てる間だけでいいから、と続く言葉に、そうなのかと、思わず、感心してしまう。
 指先で何度も、真白い布が行き交って。
 手早く、正確に巻かれていくそれに、器用だなと、ぼんやりと思う。
 隣で、幾分か早めに出された火鉢が、暖かな音を立てて爆ぜる。 
 外はもうずいぶんと冷えているだろうけれど、この部屋では、それを感じることはなくて。
 
「はい、できた。…治るまではしばらく来てね」

 言いながら、向けられたのはひどく嬉しそうな微笑。
 普段は、己がされるばかりで、こんな風に世話を焼くことなど、滅多に無いのだろう。
 それはひどく、一太郎の心を浮き立たせるのに違いなく。
 薬を塗りこめる間も、常にその口の端には楽しげな笑みが浮かんでいたのを思い出す。

「ね?」
 
 念を押すように、見上げてくる瞳は、ひどく楽しげな色が浮かんでいて。
 ここまでする必要ないと、思うけれど。
 断れば、きっと寂しげに顔を曇らせるだろうから。
   
「……はい」

 結局、松之助は困ったように笑いながら、頷くことしか出来なかった。