ぽんと、肩を叩かれる。
 休憩だと、告げられて、ほっと息を吐いた。
 客の目に付きにくい、奥の間で休みながら、そっと、袂から取り出すのは、一通の文。
 そこに書いてある、師走のお店とは掛け離れた、和やかな空気に、松之助は微かに、口元に笑みを含んだ。
 雪が積もったのに仁吉も佐助も触らせてくれないだとか、千両の実がきれいだとか。
 そして、端々に、仕事で忙しい松之助を気遣う言葉が書かれていて。
 優しい弟の心根に触れた気がして、松之助の目元が、和らぐ。
 読む側から、返事の文面を考えている自分が居て。
 いつもいつも、気が付けば心配事ばかり、書き連ねてしまい、それを一昨日の文で、一太郎に指摘されたばかりだというのに。
 また、心配事ばかり考えている自分に気付いて、思わず、苦笑が漏れた。
 その目が、文末に書かれた言葉を捉えた途端、かっと、松之助の目元に朱が走る。
 紙を持つ手が、微かに震えた。
 そこに書いてあったのは、愛しい逢いたいと、一太郎からの、己への想い。 
 周りに気取られぬ様に何度も深く、呼吸を繰り返して。
 まだ、少し頬は熱いけれど。
 もう一度、最後の文を辿れば、口の端に浮かぶのは、やはり、嬉しそうな微笑。
 気恥ずかしいけれど、それは、松之助も同じ気持ちで。

「嬉しそうだねぇ。どこの女子だい?」

 不意に、背後から掛けられた声に、驚いて振り向けば、揶揄を含んだ笑みで、こちらを見つめる同僚が居た。
 慌てて否定する、頬が熱い。
 そんなに、顔に出ていたのか。

「違いますよ。若だんなからです」
「なんだい。色気がねぇなぁ」

 笑われ、苦笑で返す。
 冷えた手を、火鉢に翳しながら、同僚の手代が、不思議そうに小首を傾げた。

「けど、若だんななら、いつでも会えるじゃあないか」

 調子が悪いわけじゃあないだろう?と続けながら、視線を、店表の佐助に遣る。
 手際よく働くその姿があると言うことは、一太郎の調子も良いということで。
 
「えぇ。けど、あたしが忙しいですから」
「それで文の交換かい?…仲が良いねぇ」

 心底驚いたように目を見開かれ、先とは違う意味で、頬が熱くなるのを、松之助は感じた。
 年の瀬も近い今、長崎屋は恐ろしく忙しい。
 今も、忙しない人の声が、気配が、店表から流れ込んでいて。
 一太郎に逢いに行く暇も、当然のように無かった。
 いくら自分の調子がよくても、これでは何の意味も無いと、一太郎はひどく寂しがっていたと、後から佐助に聞いた。
 
「………」

 知らず、視線を落としていたのは、手の中の文。
 それはひどく、愛おしくかんじられて。
 綺麗に整った筆跡を、そっと、指の先でなぞる。
 互いに逢えぬ寂しさを埋めるように、交わし始めた文は、意外にも楽しくて。
 内容は何のことの無い、互いの日常だけれど。
 まるで、日記の換え事のような、いっそ稚拙とも呼べる、文のやり取りだけれど。
 それでも、その端々に、想う深さが感じられて。
 一太郎も、同じように思ってくれていたら良いなと、松之助は想った。




 昼間、ずっと考えていた文面を、紙に落とす。
 昼間の疲れからか、もう既に、眠りの海に落ちている仲間を、起こさぬように、そっと静かに。
 やはり、紙のほとんどは、心配事で埋め尽くされてしまったけれど。
 末尾の、紙の余白が、今日はやけに目に付いて。
 そっと、広げるのは、昼間の、一太郎からの、文。
 
「………」

 何度目かの逡巡の後、松之助は更に一文付け足して、そっと、筆を置いた―。
 


 
 ちらり、佐助にやる視線に、どうしても、期待が篭ってしまうのを、止められなくて。
 朝餉の箸を置いた一太郎の、その視線に気付いたのか、佐助が苦笑交じりに、懐から一通の文を、差し出してくれる。

「ありがとう」

 きっと、今の自分は、ひどく嬉しそうな顔をしているに違いないと、一太郎は思う。
 膳が片付けられるのを待ち切れずに、はらり、開く。
 松之助らしい、几帳面さが滲み出た文字で、書き連ねられるのは、己への心配事ばかり。
 雪が降ったけれど、寒くは無いかとか、調子がよくても、薬はちゃんと飲まなければいけないだとか。
 思わず、苦笑が漏れる。
 それでも、その全てから、己を気遣う想いが滲み出ていて。
 知らず、一太郎の目元が、和む。
 ふと、その目が、末尾の、此れ以上無い程の紙の隅に、小さく書かれた一文を、捕らえる。
 途端、かっと、目元が熱くなるのが、分かる。
 そこに書かれていたのは、一昨日の己が書いた言葉への返事。
 自分も同じほど、一太郎が愛しいと、逢いたいと書かれていて。
 少し震えた文字の向こうに、気恥ずかしさを堪え、それでも、自分に想いを伝えようと、書いてくれた松之助が見えるような気がして。
 真逆、返事があるなどと、思っても見なかったから。
 紙を持つ手が、震えた。
 同じ想いでいてくれたのだと、そう思うと、ただひたすらに、嬉しくて。
 自然、口の端に浮かぶのは、嬉しげな微笑。
 お店が忙しくなった途端、何日も逢えぬ日が続いて。
 寂しいけれど、我侭は言えぬと、分かってはいたから。
 口に出せぬ分、想いは余計に、積もってしまって。
 文なら邪魔にならぬだろうからと、佐助に託せば、翌日の朝餉に、返事の文を受け取って、ひどく驚いたのと同時に、ひどく、嬉しくて。
 寂しさが、埋まるのが分かった。
 それから、毎日のように、文を交わした。
 恋文など、交わしたことが無いから、良く分からなかったけれど。
 仁吉がいつも貰うようなものは、自分達には当て嵌まらない様な気がしたから。
 内容は何のことの無い、互いの日常だけれど。
 まるで、日記の換え事のような、いっそ稚拙とも呼べる、文のやり取りだけれど。
 それでも、その端々に、想う深さが感じられて。
 
「兄さんもそうだと良いな…」

 呟きながら、もう、手は筆を取っていて。
 何を書こうかと、あれこれ考えるのは、ひどく楽しい。
 迷ったり休憩したり。
 鳴家の相手をして、お獅子の相手もして。
 屏風のぞきと碁も打って。
 結局、文を書き終わるのは、一日の終わりが近づいた頃。
 想いを込めたそれを、そっと、丁寧に折りたたんで。
 
「明日…佐助に頼もう」

 呟く一太郎の口の端、浮かぶのは、ひどく満ち足りた微笑だった―。