「嬉しそうだねぇ。若だんな」

 揶揄を含んだ屏風のぞきの声に、顔を上げれば、一太郎が照れたように笑っていた。
 けれど、瞳の奥には、幸福そうな色が滲み出ていて。
 その手に在るのは、一通の文。
 ここの所ほぼ毎日、交わしているらしいそれは、松之助からのもの。
 
「………」

 視線を遣るのは、母屋の方。
 師走の、忙しない空気が、この離れにも、微かに伝わってくる。
 薬種問屋の方も、当たり前に忙しいけれど。
 廻船問屋の方は、それに二重三重に輪を掛けた忙しさ。
 いくら一太郎の調子がよくても、松之助が忙しくては、逢う事は難しい。
 それでも、一太郎の機嫌が良いのは、数日前から、ほぼ毎日、互いに交わし始めた文のお陰。
 幸せそうに文を読む一太郎は、ひどく微笑ましい。
 調子も良いし、機嫌も良い。
 それは、仁吉にも嬉しいことのはずだけれど。

「不機嫌そうだねぇ?」
「…燃やすぞ」
「仁吉っ」

 揶揄するように覗き込んできた屏風のぞきに、低く呟けば、一太郎から窘める様に名前を呼ばれ。

「お前もいちいち人を怒らせるようなことを言うんじゃあないよ」

 苦笑と共に、屏風のぞきを窘めるふりをして、さりげなく仁吉との間に入ったのは、守狐。
 その、金色の目が、仁吉を見上げ、困ったように笑う。
 その視線から、逃れるように、席を立つ。
 
「では、あたしはこれで」
「あ…私も」
「忙しくて人の出入りも激しい。病を拾うことになったら事ですから」

 大人しくしてて下さいと、強引に一太郎を留め置いて、一人、お店へと戻る。
 先の屏風のぞきの言葉を思い出し、知らず、舌打ちが漏れた。
 きゅっと、昨夜降り積もったばかりの、真新しい雪が、足元で音を立てる。
 頬を撫でる風は、刺す様に冷たくて。
 自然、思い浮かぶのは、寒さがあまり得意ではない相方の顔。
 忙しさの所為で、ほとんど顔を合わさない日が、続いている。
 忙しい廻船問屋に身を置く佐助は、朝は仁吉より早く、夜は仁吉より、遅い。
 偶に、部屋にまで持ち込んだ帳面を睨みつける横顔に、声を掛けても、返って来るのは生返事だけで。
 言葉も、まともに交わしてはいない。
 
「………っ」

 また、舌打ちが漏れる。
 急ぎ足でお店へと戻るその足が、不意に止まった。
 見つけたのは、相方の姿。

「佐助っ!」

 知らず、大きな声で呼んでいた。
 驚いたように振り返る佐助の眼が、仁吉を捕らえた途端、笑みを浮かべ。
 つられ、仁吉も口の端に微笑を乗せた。

「ちょうど良かった。これ、番頭さんに渡しとくれ」

 言いながら、差し出されるのは一冊の帳簿。
 
「それじゃあ、そっちも忙しいだろうから」

 受け取った途端、佐助はくるりと踵を返そうとする。
 その意識はもう、お店の方を向いているのは明らかで。

―ほら、すぐこれだ―

 零れた溜息が、白く、冷たい空気に溶け消える。
 軽く、湧き上がるのは苛立ち。
 それは、屏風のぞきや、守狐に見透かされる程。
 同じ廻船問屋でも、松之助は毎日、一太郎と文を交わしているというのに。
 佐助の自分に対する態度はひどく、素っ気無い。
 
「………」

 無言のまま、掬ったのは、庭石の上に積もった雪。
 軽く、握りこめば、掌の中、小さな塊となったそれが、溶け消える前に、立ち去ろうとする、佐助の襟首を後から引っ掴む。

「………」
「何…っひ…ぅわっ!?」

 やはり、無言のまま、手の中のそれを佐助の背中に落とし込めば、冴えた空気を、頓狂な悲鳴が裂いた。
 
「何すんだっ!?」

 雪の塊はすぐに溶け消えただろうけれど。
 背中を伝う濡れた感触が不快なのか、顔を顰めながら、背を丸め込む佐助に、仁吉はひょいと片眉を吊り上げる。
 
「別に。…お前はあたしがお前を想う程、あたしのことは想っちゃいないみたいだからね」
「はぁ?」

 訳が分からないと、眉を顰めるのに、軽く鼻を鳴らして踵を返す。
 濡れ、冷えた手指に、一層苛立ちが募った。



 
「何なんだい…一体」

 苛立ちを隠そうともしなかった後姿に、佐助は小首を傾げ。
 未だ背筋に残る不快感に、ふるり、身体を震わせた。

「どうかしたんですか?」

 顔を上げれば、松之助が、心配そうにこちらを覗き込んでいて。
 慌てて笑みを浮かべ、取り繕う。
 忙しない空気の中、聞きとめられたのが意外だった。
 
「いや…仁吉の機嫌が悪いらしくて…」
「若だんななら調子は良いんでしょう?」

 一層、心配そうに眉尻を下げる松之助に、それは大丈夫だと、頷いて見せる。
 
「いや、あいつが気に食わないのはあたしらしい」
「…何かあったんですか?」

 小首を傾げる松之助の言葉に促されるように、記憶を辿ってみるけれど。
 そもそも、顔を合わせることすらないのだから、怒らせる事すら起きないはずで。
 一層首を傾げながら、それを告げれば、松之助が、不意に苦笑を零した。

「それですよ。きっと」
「え…?」

 驚きに目を見開きながら返せば、松之助が困ったように笑いながら、口を開く。

「若だんなも、栄吉さんが忙しくて遊びに来れなかったら、寂しそうにされるでしょう?きっとそれと同じことですよ」

 それよりも松之助に逢えない時の方が寂しそうだと、佐助は思ったけれど。
 それはこの際口には出さず、言われた言葉に、思考を巡らせる。

「寂しいんですよ。仁吉さんは」
「仁吉が?」

 穏やかな笑顔で言われ、そんなことは無いだろうと、反論しようと、口を開き掛けた時。

「すみません」
「佐助さん、一寸良いかい?」

 松之助は客に、佐助は番頭に呼ばれ、会話は宙に放り出された。
 それでも、言われた言葉は、佐助の頭の片隅、常に引っ掛かって。
 今更の様に、振り返ってみれば、言葉を交わさなくなって、顔を合わせなくなった日の長さに、驚いた。
 一度自覚したそれは、急に重みを増して。
 忙しない人々の合間を縫って吹き込んでくる、冷たい風が、何故だか一層、身に沁みた。
 
 
 
 

「仁吉」

 夜、布団の中、背を向けた相方に、呼びかける。

「何だい」

 未だ機嫌は傾いたままなのか、応えてはくれるけれど、その声はひどく硬い。
 相変わらず向けられたままの背中に、それでも、構わずに口を開く。

「寂しいのかい?」

 どうにも、松之助の言葉は、仁吉には当てはまらないような気がして。
 思い切って本人にぶつけてみれば、その反応はひどく、意外だった。

「……うるさいよ」

 ちらり、一瞬、こちらに投げられた視線は、睨みつけるそれだったけれど。
 その目元は、微かに朱に染まっていて。
 そんな姿を、初めて見た気がした。

「………」

 知らず、口の端に浮かぶのは微笑。
 何よりもの肯定に、どこか安堵している自分が居て。

「良かった…」

 口に出せば、唐突に身を起こした仁吉に、睨みつけられた。

「何が言い…」

 仁吉の言葉が、宙に浮く。
 驚いた様に、見開かれるのは切れ長の瞳。
 かっと、一息に、その白い頬が赤くなる。
 
「悪かったよ。…あたしが」

 言いながら、佐助の手は、幼子をあやすそれの様に、ぽんぽんと、仁吉の頭を撫でていて。
 硬直し、間が抜けた面を晒していた仁吉が、はたと、我に返る。

「お…お前はあたしを何だと…」
「寂しかった」

 情けなくも上擦った声に、被せるようにぽつり、言葉を零す。
 仁吉の眼が、怪訝そうに、佐助を見上げた。

「今日、まともに顔を合わせなくなった日を、数えてたら…急に寂しくなった…」

 ぽつり、ぽつりと、零す佐助の目元も、赤い。
 視線が合えば、照れたように笑う佐助に、仁吉の肩から、力が抜ける。
 溜息と共に、零れるのは一人笑い。

「仁吉…?」
 
 小首を傾げる佐助の頬に、仁吉の、細く白い指が、伸びる。
 頬から耳を掠めて、首筋へを辿るひんやりとしたそれに、思わず、身を竦ませた。
 
「あたしも寂しかった。だから…」

 やけに素直な言葉に、驚いて顔を上げれば、返って来るのは艶然とした、微笑。
 耳元、落とされる囁きに、ふるり、身を震わせる。
 
「埋め合わせをしよう」

 腕の中の体温に、久方ぶりの、確かに愛しいそれに、佐助は小さく、頷いた―。