一雨降った後の、涼やかな空気が、髪を撫でる。
 心地良いそれに、常なら眠りは一層、深くなったはずなのに。
 己の意識を呼び起こした、軽い衝撃に、屏風のぞきはぼんやりと視線を巡らせた。
 
「……?」

 未だ、焦点の定まらぬ視界の中、己の顔のすぐ横にある男の顔に、一瞬、誰だったかと疑問符が浮かぶ。
 記憶の糸を辿れば、昼寝をする前、自分は確かに、久々に訪ねてきた守狐と話しをしていて。
 
―で、夕立が来て…雷が鳴って…―

 二人、稲光を眺めたのは覚えている。
 強風に、雨が吹き込むから閉めろというのに、守狐はすぐ止むからと、笑って取り合わなかった。

―涼しくなって…寝ちまったんだっけ…―

 胸が、僅かに息苦しい。
 よく見れば、男の腕が抱き込むように、絡んでいる。

―守狐…?―

 その寝顔は、確かに先日会った友の人形のそれで。
 眠りに就く前は確かに狐のはずだったのにと、屏風のぞきは小首を傾げた。
 雨はもう止んだのだろうか。
 洗い流された空気は、僅かに湿気を孕むだけで、うっとうしさは無い。
 小さく、蜩の声が聞こえ始めたから、きっともう上がっているのだろう。
 このままでは寝難いと、起こさぬようにそっと身を捩って、守狐の腕をずらせば、守狐が微かに呻いて、眉根を寄せた。

―起こしたかね…?―

 不安に覗き込めば、起きる気配は無くて、ほっと安堵する。
 夏になれば、冬の代わりにと、暑さに弱い守狐はいつも、人より体温の低い屏風のぞきに、纏わり付いて、昼下がりを過ごしていた。
 寒いのは苦手だが、暑さはあまり感じない屏風のぞきは、まるで冬とは逆だと笑いながら、それを受け入れていて。

―毛皮は暑そうだものねぇ…―

 大方それがうっとうしくて、無意識に人型を取ったのだろうと勝手に結論付けて、屏風のぞきは、再び、惰眠を貪ろうと、目を閉じる。
 
「…ぅあ…っ?」

 途端、首筋に感じたぬらりとした感触に、思わず、あらぬ声を上げてしまい、屏風のぞきは驚きに目を見開いた。
 まるで、情事のときのそれのように、舐め上げられたのだ。
 
「守狐…っ?」

 己の首筋に顔を埋める守狐の、まるで己を抱きこむように絡んでくる腕を押し返せば、返事は無くて。
 狐の時の癖が、寝惚けて出たのかと、小さく息を吐く。
 今の、随分情けない声を聞かれずに済んだと、屏風のぞきは内心、苦笑を漏らす。

―守狐は仁吉さんとは違うもの…―

 友が、そんな意図で触れてくるなど、そんなことは、あるわけが無い。
 首筋を擽る髪が、こそばゆかったけれど、屏風のぞきは今度こそ本当に、涼風に意識を手放した―。

 


「ぁぐ……っ?」

 唐突に、首を締め上げるように引き摺り揚げられ、屏風のぞきは思わず、己の首筋を掻いた。
 あまりにも乱暴な目覚めに、訳が分からぬまま、足をばたつかせれば、ようやっと、少し呼吸が楽になる。
 それでも、引き摺られる力からは、逃れることが出来なくて。
 敷居の上を通ったのか、強かに腰を打ちつけ、痛みに呻く。
 
「な…何…」

 どうにか首を捻じり仰げば、己の襟首を引っ掴んで歩く仁吉がいた。
 尤も、こんな酷い事をするのは、仁吉ぐらいだけれど。

「ちょ…仁吉さ…待っ…」

 気を抜くと首が絞まるので、切れ切れにしか話せない。
 仁吉はこちらには視線すら投げずに手代部屋の障子を開くと、乱暴に放り込まれた。

「痛ぅ…っ」

 打ち付けた腰を擦りながら、それでも、閉めた障子の前、見下す仁吉を睨み上げる。
 逆光になり、表情は良く見えなかったけれど、そんなことはどうでも良かった。

「何すんだいっ」

 吠え付けば、仁吉は起用に、片眉を引き上げ、意地の悪い笑みをその形のいい唇に刷いて、こちらを覗き込んで来る。
 その、怖い様な笑みに、思わず、腰が引けてしまう自分が情けない。

「よぉくお休みだったみたいじゃないか」

 ざわりと、神経を逆撫でする様な、猫撫で声が恐ろしい。
 それでも、最後の虚勢で睨みつけるけれど、その眼に怯えの色が滲んでしまうのは、隠せなかった。

「守狐殿と二人仲良く」

 続く言葉が、気のせいか、低い。
 随分怒らせてしまったみたいだけれど、その理由が掴みきれず、屏風のぞきはただ、困惑に仁吉を見つめた。

「な…何をそんなに怒ってるんだい…?昼寝ぐらい…」

 いつものことだろうと、続けようとした言葉が、気味が悪いほどに綺麗に浮かべられた笑みの前に、消える。

「随分仲良さ気に寄り添って。まるで恋仲のようだったねぇ」
「へ?」

 それは誤解だと、守狐とは昔からの友達だと、開きかけた唇は、けれど、仁吉のそれで塞がれ、声にはならず。
 噛み付くように荒く、舌を絡め取られ、きつく吸われ、息が上がる。
 押し返そうともがけば、その手すら、捕らわれて。
 ぎりと、音がするほどに掴まれた手首に、痛みが走る。

「違…っそんなんじゃあ…っ」

 無いと、悲鳴じみた声を上げてみても、仁吉は取り合ってくれなくて。
 押し倒され、押さえ込まれればもう、流されるしかない。

「向こうはどうだかね」

 低く、呟かれた言葉に、そんなことあるわけがないだろうと、思うけれど、不意に着物の合わせ目から差し込まれた手に、言葉は阻まれてしまう。

「嫌だ…ぁ…っ」

 いつもより荒く、意地悪く責められるのは辛かったけれど、妬いてくれたのだと思うと、奇妙に嬉しくて。

「ひぁ…ぁう…」

 悲鳴の中、甘さの滲んだ声が、濡れた空気に、溶けて消える。
 事が終わったら、ちゃんと話そうと、屏風のぞきは快楽に飲まれる意識の中、ぼんやりと思った―。





「くっ…ぁあっ」

 散々に責め抜いた所為だろう、屏風のぞきは何度目か分からぬ精を吐くと、そのまま失神するように眠ってしまった。
 その白い肌に転々と散る跡が、淫猥に事の激しさを物語っていて。
 仁吉はそっと、自身を引き抜き、後始末を整えると、そっと、その白く細い指を、己がつけた跡に這わす。
 それは、着物を着ても分かる位置にもつけられていて。
 ぴくり、小さくみじろぐ屏風のぞきに、思わず漏れる微笑。
 屏風のぞきは全く気付いていていない様だけれど、守狐が思いを寄せているのは明白で。
 邪魔立てする気は無い様だけれど、己の与り知らぬ所で触られるのは気に食わない。
 現に今日だって、一太郎とお店から戻ってみれば、まるで恋仲のそれがするように、屏風のぞきを抱き込んで眠っていた。
 否、仁吉が部屋に入った時は起きていた。
 あの糸の様に細い目に、挑むように笑いかけられ、仁吉は一太郎が止める間もなく、屏風のぞきを、その腕の中から引きずり出したのだ。
 
「こいつはあたしのもんだ…」

 小さく呟き、その口の端、浮かべるのは底意地の悪い笑み。
 もう一度、己が刻み付けた刻印に、舌を這わせる。
 
「ふぅ…っ」

 無意識だろう、微かに、唇を戦慄かせ、敏感な反応を示す屏風のぞきを、愛しいと思う。

「誰があんな目細にやるもんかね…」

 低く零れた言葉は、誰に受け止められることなく、寝屋の空気に溶け消えた―。