「役立たずの紙っぺらのくせに、でかい口叩いてんじゃないよこの穀潰し」
「…っの…!誰が役立たずだってっ?」
いつもの過ぎた軽口に、いつもの様に手を振り上げる。
いつもなら、憎たらしいくらいの綺麗な笑みで、ひょいと、呆気無く躱される所なのに。
「………あれ…?」
辺りに響いたのは、乾いた音。
じんと、痺れる掌は、確かに仁吉の頬を捉えていた。
それは、あまりにも綺麗に決まった、平手打ち。
二人の間に、止めに入った一太郎でさえ、大きく目を見開いて固まっていた。
「おお痛い。なんてことしてくれるんだい」
確りと。
屏風のぞきの手首を掴んで、業とらしく振り下ろされる声に、全身が総毛立つ。
ようやっと、己が置かれた状況が、頭の中に入ってくる。
―嵌められた…―
恐る恐る、見上げた先、ぶつかったのはあまりにも愉しげな笑顔。
「ひ…っ」
知らず、喉の置くから、怯えの滲んだ声が漏れてしまうのが情けない。
じわり、背中に浮かぶ、嫌な汗。
形振りかまっちゃいられないと、咄嗟に手首を引いて逃れようとしたけれど、強く掴まれ、敵わない。
「目上の者に手を上げるなんて、無礼にも程があるだろう。…あたしは優しいからねぇ。お前の後生のために、特別に、態々、躾け直してあげるよ」
一語一語区切りながら。
にぃこりと。
この上なく優しい声音で向けられる笑顔は、この上なく愉しそうで。
ふざけるなと、怒鳴りたかったのだけれど。
震えだした身体は、声すら出ない。
「…ど、何処行く気だい…?」
てっきり、手代部屋に放り込まれるのかと思ったのに。
仁吉の足は、縁側から直接、庭に降りた。
「さぁ?何処だろうねぇ?」
ちらり、投げ寄越したのは愉しげな微笑。
ざわり、背筋に悪寒が、走る。
仁吉の足先が、向かうのは、人気の無い蔵の方。
「い、厭だよ…ねぇ仁吉さん、あたしが…」
「五月蝿い」
震える声で、自尊心をかなぐり捨てて。
悪かったと、告げる声は、唐突に低くなった声音に遮られた。
「……っだ…!」
白沢の力を使ったのか。
音も無く開いた蔵の土間、叩きつけられ、背中の痛みに、呻く。
「―――っ」
ばさり。
倒れこんだ顔の横。
重い音を立てて投げられたのは、縄の束。
屏風のぞきの瞳に、隠しようもなく、怯えが滲む。
覚えのありすぎるそれに、思わず、哀願の色を浮かべ、仁吉を見上げる、色をなくした頬が、震えていた。
「そんな眼で見るんじゃあないよ。…加減ができなくなっちまうだろう?」
薄い唇に浮かぶのは、ひどく優しげな、笑み。
けれど、眼が、笑ってはいなくて。
浮かぶ、酷薄な色に、血の気が下がる。
「い、厭だ…っ」
身を起こし、逃げ出そうとついた腕を、捻じり上げられ、痛みが走った。
「痛ぅ…っ」
ほんの一瞬、屏風のぞきの、動きが止まる。
その隙を逃さぬように。
後ろ手に組まされた両手を、纏め上げられてしまう。
「は…っぐ、ぅ…」
きつく、胸に、腕に、縄を回され、息が苦しい。
指の先はもう、痺れ始めていた。
「は、なせ…っ」
「へぇ?余裕だねぇ」
腰に回した縄を引き掴まれて、無理な姿勢で、身を起こさせられる。
愉しげな笑みを浮かべて、覗き込んで来る眼を、最後の意地で、睨み付けた。
「いつまで続くかね?」
「………っぅ」
軽く、勢いをつけて。
再び、土間に叩きつけられ、ぶつけた頬の痛みと、舞い上がる埃に、小さく、咽る。
上から降って来る忍び笑いが、煩い。
「や、め…っ」
裸足の、仁吉の爪先が、屏風のぞきの胸の中央を、滑る。
背中と土間の間で、腕が軋んだ。
縄目の上で、軽く体重を掛けられ、息苦しさと、一点に集まる痛みに、眉根を寄せる。
「苦しい?」
「………っ」
常なら睨み付けるのに。
堪えきれず、こくりと頷く。
埃に塗れた土の上を、髪が滑る感覚が、不快だった。
唐突に、仁吉の足が、胸を離れて、思わず、息を吐く。
ついと、仁吉の足指が、屏風のぞきの顎を掬う。
途端、唇の狭間から、爪先をねじ込まれた。
「舐めて」
「…っんぅ…」
屈辱と苦しさに、涙が滲む。
それでも、歯を立てることもせずに。
指の股から丁寧に。
舌を這わせる自分が不思議だと、どこかぼんやりとした頭の片隅で、思う。
「何処で覚えてきたんだか」
「…っぐぅ…っ」
殆ど踏みつけるように。
口腔内に差し込まれる指に、その与えられる苦しさに、眦を涙が伝う。
視界の端、満足げに嗤う仁吉の口元が、見えた。
「か…は…っ」
唐突に引き抜かれ、与えられる空気に、派手に息を吐く。
爪先と、屏風のぞきの唇を、繋ぐ銀糸が、卑猥だった。
「ひ、ぁう…っや…っ」
唇から顎先、首筋をゆるくなぞる足先が、不意に屏風のぞきの、胸の突起を探り当てる。
柔くきつく、踏み躙る様に嬲られ、痛みと快楽に、息が上がる。
胸の縄が一層、苦しかった。
「悦いんだ?」
「違…っい…っ?」
否定の言葉を吐き出そうとした途端。
仁吉の足が、屏風のぞき自身を、捕らえた。
「何が違うって?」
「痛ぁ…や、め…」
踵で押し潰すかの様に躙られ、敏感な箇所に走る痛みに、ぼろり、見開いた眼から涙が零れる。
それなのに。
そこは確かに、熱を孕んで。
どうしようもなく、強請るように腰が浮く。
その様に、揶揄を含んだ笑い声が、羞恥を、屈辱を煽る。
「ま、その表情も悪かないがね。…悦ばしてばかりじゃあ、躾けにならないだろう?」
覗き込まれ、背を支えられ、上体を起こさせられる。
優しげに、乱れ髪を梳いてくる手が、空恐ろしい。
どうしようもなく、怯えが滲んだ目で見上げれば、縄ごと腕を掴まれ、引き立てられた。
「上げるよ」
「厭…っ」
拒む間も、無く。
梁から下がる縄が、上肢から腰へと一直線に、引き結ぶ。
引き上げられ、軋むのは、梁か、縄か、肌か。
「あ…、は…っぅ…」
恐らくはその全部だろうと、屏風のぞきは、何処か冷めた頭の片隅で、思う。
体全ての重みが、腰の縄に掛かり、痛い。
浮いた爪先が、地を求め、無様に空を掻く。
一息に、血の巡りが悪くなったのか、頭の芯が痺れたように、虚ろになる。
後ろ手の感覚は、とうに消えていた。
胸の縄が、一層、苦しい。
「………っ」
髪を引き掴まれて、無理な角度で顔を上げさせられ喉が震えた。
目の前の無駄に綺麗な顔が、笑う。
全くもって、愉しそうに。
悔しさに、唇を噛み締めて睨みつければ、乾いた音が、薄暗い土間に、響く。
「どうだい。少しは懲りたかい?」
優しすぎる声音が、神経を逆撫でる。
打たれた頬が、熱い。
一つ、息を吸って。
薄暗い蔵の土間に吐き棄てた唾液は、妙に紅かった。
「随分、…あたし、に…ご執心じゃあないかい…え?白沢さんよ…」
細かい息の下。
精一杯の意地で口角を吊り上げて笑えば、一瞬、切れ長の目が驚いた様に見開かれて、少し、溜飲が下がる。
「………い…っ」
空を切る鋭い音の直後、肌に走る鋭い熱。
乱れ、剥き出しになった腿に一筋、紅い線が浮かぶ。
空を掻く爪先が、微かに土間に触れたのか。
割れた爪から、血が滲む。
「そうだねぇ…」
篠鞭の先端が、顎を捉える。
上向かされた先、覗き込む眼を睨み付ければ、見惚れるくらい綺麗な笑みを向けられ、悔しいが息を呑む。
「どうやらあたしはお前に惚れてるみたたいだ」
「あんたなんか大嫌いだ」
平気でそんな言葉を吐き出して。
どんな心地でそれを言うのだと、切なさがこみ上げる。
篠鞭が外れた途端、俯いた屏風のぞきの頬から流れた滴が、薄暗い蔵の土間を濡らした。
「真実だよ」
不意に、振ってきた声に、顔を上げる。
途端、最後の滴が、頬を伝う。
一瞬、ぶつかった仁吉の眼はひどく優しい色を浮かべていて。
思わず、目を見開いたけれど。
すぐに、逸らされ、その白い手指は、屏風のぞきの背中に回る。
「………っわ…」
全く、唐突に。
梁とを繋ぐ縄を解かれ、己の身体を支えきれずに、まとも、尻餅をつく。
くすり、降って来た笑い声に、睨みつけようとした途端。
抱きすくめられ、一切の思考が、持っていかれてしまった。
「な、に…」
「言ったろう?あたしは真実お前に惚れてるんだ」
だったらこの仕打ちは何だと、詰りたい。
まだ解かれてはいない上肢の縄が、苦しい。
「あたしが此処まで構うのはお前だけだもの」
ふざけるなと、怒鳴り散らしたかった。
想いを告げられてからも、いっそ非道な仕打ちは、変わらなくて。
一層酷くなる様なそれに、やはり揶揄われたのだと、泣きたい様な心地にさせられたのに。
「…そんなのいらない、よ…」
零れた声が、震えた。
「仕方ないさ。好きなんだもの、お前のことが。…諦めな」
「な…っ」
あまりにもな物言いに、反射的に顔を上げれば、愛しげな視線とぶつかって。
思わずまた、俯いてしまう。
さっきまでは散々、打つや嬲るやしていた指が。
ひどく優しく、髪を梳くから。
「…大嫌いだ」
惚れた腫れたは自分の十八番と、思ってきたけれど。
どうやらそれは、間違いだったのかしらと、屏風のぞきは思う。
「ありがとうよ」
酷く嬉しそうな声音で、抱すくめてくる腕の中。
惚れた方が負けというのはこういうことかと、ぼんやりとした頭の片隅で、思い知った。