何処か遠くで、鳶の鳴く声が、響く。

「ああほら…」

 言いながら、不意に伸びてきた手が、首筋を掠め、そのひやりとした冷たさに、一太郎は僅か、首をすくめた。

「襟巻きはちゃんとしないと…。首を冷やしたら身体に障りますよ」
「ありがとう」

 しっかりと、首に巻いた襟巻きを直してくれる松之助に、向けるのは笑い顔。
 その手をそっと、上から包み込めば、戸惑うような視線を返してくるから。
 
「兄さんの手も、冷えてるじゃない」

 揶揄する様に笑って。
 はぁと、息を吐きかけ、擦る。
 荒れた手指は、爪が白くなるほど、冷えていた。
 
「もう、良いですから。あたしは大丈夫です」

 少し、気恥ずかしそうに。
 苦笑いで、手を引こうとするのを、きゅっと、握りこむことで、阻む。

「若だんな?」
「じゃあ、片手だけ」

 繋いだのは、松之助の左手と、己の右手。
 そのまま、躊躇う素振りを見せる松之助には構わずに。
 手を引くように、歩き出す。

「今日は随分機嫌が良いんですね」
「うん?だって兄さんと一緒だもの」

 にこり。
 上機嫌の笑い顔を返せば、松之助は一瞬、驚いた様に目を見開いた後。
 はにかむ様に、笑ってくれた。
 頬を撫でる風は、少し冷たいけれど。
 背に当たる日差しは、随分と暖かい。
 そんな、小春日和。
 めずらしく、ここ暫く身体の調子も良かったから。
 近くの寺院に、寒椿が咲いたのを見に行きたいと、強請ってごねて。
 きちんと薬も飲むし、暖かくするし、決して無理はしないと、延々と約束を重ねて、二人の兄やを納得させたのがつい先刻。
 それでもと、供に付けられたのが松之助で、一太郎の機嫌は一層、上を向いた。

「籠を呼ばなくて平気ですか?」
 
 心配げに、顔を覗きこんでくる松之助に、向けるのは苦笑。

「大丈夫だよ。…本当に今日は調子が良いんだ」
「けれど、無理はいけませんよ」

 眉根を寄せてくるのに、一太郎の苦笑は一層、深くなる。
 ふと、視界の端に、茶屋を捉えた。
 ふわり、漂ってくるのは、甘酒の匂い。

「うん、じゃあ少し、休もうか」
「そうしてください」

 ようやっと、笑ってくれた松之助の手を引いて、据えられた床机に、腰を下ろす。
 店の者に頼んだのは、二人分の甘酒。
 松之助が隣で、戸惑うように声を上げかけるのを、半ば強引に、押し留めて。
 未だ傍らに立ったままの手を、少し無理に引いて、座らせる。

「若だんな、あたしの分は…」
「いいじゃない。温まるよ?」

 上機嫌な、笑い顔を浮かべているのだろうと、自分でも分かる。
 昼の間に、こんな風に松之助と外出ができるなんて、滅多にない。
 それだけでもう、一太郎はひどく、嬉しかった。
 
「…でも……」
「兄さんが要らないなら私も要らない」

 尚も、言い募ろうとする松之助を遮って言えば、聞こえていたのか、店の者からちらり、視線が松之助に流れる。 
 客を、逃したくはないという思いが、ありありと浮かんだ視線だった。

「……わかりました…」

 ちらと、その視線を気にしながら、不承々々といった風に、頷くのを見て、一太郎は破顔する。
 盆を抱えた店の者も、ほっと、安堵の息をついたのが、気配で分かった。
 
「はい、おまちどう」
「ありがとう」

 程なくして、二人の前に差し出されたのは、温かな湯気を立てる甘酒。
 ふわり、鼻腔を掠める甘い匂い。
 口に含めば、心地良い熱が、広がる。
 ちらり、横目で松之助を見れば、その目元が、心なしか和らいでいて。
 思わず、口元、笑みが浮かぶ。

「ね?温かいでしょ?」

 上目越しに覗き込めば、一瞬、躊躇するような素振りを見せた後。
 少し、困った様に笑いながら。
 こくり、小さく、頷いてくれた。

「ふふっ」

 そんな様に、一太郎から、ひどく嬉しそうな、笑みが零れる。
 そっと、湯飲みに口を付けながら。
 上機嫌に、甘酒を啜る一太郎を見つめる、松之助の瞳に映るのは、ひどく優しい色。

―まぁ…一太郎が喜ぶなら…―
 
 良いかと、思ってしまう自分がいることに気付き、内心、漏らすのは苦笑。
 今頃お店では、みなが忙しく働いていると言うのに。
 随分な贅沢だと、申し訳なく、思う。
 それから暫く。
 のんびりと、通りを行過ぎる人々を、二人、眺めながら。
 たわいない話を、交わしたりして。
 
「さて、そろそろ行こうか」
「えぇ」

 立ち上がると、松之助が財布を取り出す間もなく、二人分の金子を置く一太郎に、やはり、申し訳ないような心地に、させられる。
 知らず、眉尻を下げる松之助に、一太郎が苦笑を零しながら、その手を取った。
 甘酒のお陰か、二人の手は、同じ体温になっていて。
 どちらも、温かい。 
 通りを歩く人は、多いけれど。
 この陽気の所為か、皆どこか、いつもよりのんびりとして、見えた。

―あ…―
 
 ふと、視線が小間物問屋の店先。 
 並べられた根付に、止まる。
 ちんまりとした木彫りの、まあるい兎が、陽だまりの中、此方を見つめていた。
 丁度、一太郎の目にも留まったのか、その足が、店先で止まる。
 
「可愛いね」
「えぇ。…良いですね」

 特別な意匠が凝らされているとか、そういう訳ではないけれど。
 素朴な、温かな雰囲気が、見る者の目元を、和ませる。
 松之助の目元も、和んだ。
 そんな様を、横目で、ちらり、伺って。

「これ、くださいな」

 店主らしき男に、一太郎が声を掛ける。
 そんなに気に入ったのかと、松之助は金子を払う義弟の背を、微笑ましい心地で、見守った。

「はい、あげる」

 唐突に。
 差し出されたのは、先ほどの兎。
 驚いて目を見開く松之助の手に、一太郎は無理矢理、握らせた。

「そんな…!いいですよ」
「だって兄さん、気に入ってたみたいじゃあない」

 笑い告げる義弟に、松之助が、困った様に眉尻を下げる。
 
「でも…」
「私が持っていて欲しいんだよ」

 「ね?」と、上目越しに見つめられ、言葉が詰まった。
 その様に、了承と取ったのか、歩き出そうとする一太郎の手を引いて、引き止める。
 多分、こうなったら言っても聞かないと思うから。
 先ほど、一太郎が買い上げた根付の隣、並ぶ、同じ品を取り上げて。

「すみません、もう一つ」
「兄さん?」

 訝しむ様に眉根を寄せる一太郎には構わずに、己の財布から、金子を払う。
 小首を傾げる一太郎に、同じ兎を、差し出した。

「そんな…」
「あたしが持っていて欲しいんです」

 多分、己と同じ言葉を言いかけた一太郎を、言われた言葉で、遮り、笑う。 
 白い掌に、ころり、兎を落とす。

「だって、一太郎に似てると、思ったから」
「え?」

 目を見開く一太郎に、手の中の兎を、指先で示す。
 ちんまりとまあるいそれは、何処か優しい心地に、させてくれる。

「なんとなく、一太郎に似てるなって、思ったんだよ」
「そ、う…?」

 笑い告げれば、僅かに、一太郎の目元に朱が走る。
 どうかしたのかと、覗き込めば、不意に顔を上げられ、近すぎる距離に、僅か、身じろいだ。

「ありがとう」

 向けられたのは、ひどく嬉しそうな照れ笑い。
 
「あたしも、ありがとう」

 返すのは、きっと、同じ色の照れ笑い。
 一太郎が、手の中の根付を、掲げて見せた。
 ゆらり。
 兎が、揺れる。
 
「お揃い。だね」
「えぇ」

 翳す指先、兎が揺れる。
 互いに交わすのは、はにかむような、笑顔。
 揃いのそれが、二人を繋ぐ気がして。
 なんだかひどく、嬉しかった。