浮き足立った、それでいてどこか、緊張感を孕んだ空気が、廊下に満ちる。
 無意識に、派手な色の目立つ奴を探す。
 いつもならすぐに見つかるはずなのに。
 見当たらないそれに、まさかサボりかと、一瞬、眉間に皺が寄りかける。
 その時。

「おはよう」
「……シゲ…っ?」

 肩を叩いた奴が、一瞬、誰か分からなかった。
 声を聞いて初めて、それがシゲだと分かったぐらいに。
 すれ違がう同級生達が、驚いたような視線を投げかけてくるのも頷ける。
 何人かは、どうしたんだと声を掛けてきた。
 煩わしいそれを避けるように、二人、移動するのは人気の無い階段。

「男前やろ」

 手すりに凭れる様に、前髪を摘み上げて、笑う。
 その髪は、黒い。

「…まともには見えるな」

 見慣れぬ、というより、初めて見るシゲの黒髪姿に、思わず、まじまじと見つめてしまう。
 簡易的にスプレーを振ったのだろう。
 パサついた髪は、所々ムラがあるのが、良く見れば分かる。

「生指にキンパのまんまやったら式出さん言われてな。…まぁ出んでもよかったんやけど、タツボン怒るやろ?」

 見透かしたように笑うシゲに、生徒指導担当教諭は、最後の最後まで苦労してるんだなと、ほんの少し同情した。
 耳に揺れるピアスは相変わらずだけれど、簡易的な黒い髪は、それでも、随分と周囲に馴染んでいる。
 せめて髪だけでも。と言う教諭の切ない思いが見て取れて、水野はまた、同情を深めた。
 それにしても。
 見慣れないからだろうか。
 違和感のあるそれは、それでも、シゲに似合っているような気がした。

「水野君っもうすぐ式…シゲさんっ?」

 驚いた様に目を見開く風祭に、ついさっき吐いた説明を繰り返すシゲ。
 廊下では、担任が整列を促していた。
 
「じゃあ、後で」
「うん」

 風祭とシゲに手を振って。
 クラスメイトの列に、加わる。
 全ての生徒を廊下に吐き出した教室は、殆どの私物が持ち帰られた今、随分と寂しげに見えた。
 そう見えるのは、今日と言う日の所為だろうかと、ぼんやりと思う。
 
「今日で最後だな」

 誰かが、呟いた言葉が、何故か、胸に突き刺さる。
 
―今日で最後…―

 別段、卒業することに感慨は無い。
 それでも、その言葉が胸に刺さるのは。

「………」

 体育館に飲み込まれて行く列の向こう。
 確かに、それは馴染んでいたはずなのに。
 持ち合わせる空気が、そうさせるのか。
 シゲはすぐに、見つかった。
 
―今日で、最後…―
「顔を上げなさい」

 不意に、横に並んでいた小島に囁かれ、思考が中断される。
 気が付けば列は、 紅白の幕が垂れ下がる、違う空気を湛えた体育館に、飲み込まれようとしていて。
 突き刺さる、保護者の視線を、左右から感じながら、列は進む。
 
「誰、あの美人」

 呟かれたクラスメイトの言葉に、何気なく視線をやれば、視界の端に、見慣れた人影が、映る。
 嬉しそうに小さく手を振る母と祖母の姿を見つけ、水野は慌てて、視線を逸らす。
 小さく、笑みを零した小島を、睨みつけた。
 
「卒業生、着席」

 学年主任教諭の声が、体育館に響いた。
 暖房器具の無い、公立校の体育館は、寒い。
 上履きの下から這い上がってくる冷気に、爪先が痛いほどに、冷える。
 次々と述べられる、退屈な祝辞を聞きながら、戦うのは睡魔。
 壇上から香る、随分大きな活け花と、保護者の化粧や香水が交じり合い、少し、空気が悪い。
 時計を見上げながら、早く終わらないかな、と、ぼんやりと思う。
 ふと、視線を移せば、こくりこくりと、船を漕ぐ影を見つけて。

―あの馬鹿…―

 腕を組んだまま、眠り扱けるシゲを、風祭が不安げに見つめている。
 周囲の生徒の肩が震えているのは、涙の所為ではないだろう。
 思わず、溜息が漏れる。

「そうやって心配するのも、今日で最後ね」
「え…?」

 何気なく、呟かれた小島の言葉が、また、胸に突き刺さる。
 中断されていた思考が、再び、巡り始める。
 
―今日で最後…―

 送辞も、答辞も、いつの間にか、遠退いていた―。




 啜り泣きが、辺りに満ちる。
 肩を寄せ合って涙を流す女子の集団を、通り抜けた直後。
 くるくると、器用に卒業証書の入った筒を回す人影と、目が合った。

「やぁっと終わったな」
「…うん…」

 体育館を出たところ。
 出迎えたシゲの顔が、何故か、真っ直ぐに見れなかった。
 
「水野君、あの…」

 不意に、呼びかけられて振り返れば、両目を真っ赤に泣きはらした少女が、見上げていて。
 思わず、面食らう。

「第二ボタン…貰っても良いかな?」
「え?あ、あぁ…」

 頷いた途端。
 辺りから次々と手が伸びて来て。
 止める間もなく、第二どころか殆どのボタンが、奪われてしまった。

「やられたなー」

 けらけらと笑うシゲを振り返る。
 睨もうとして、初めて、学ランを着ていないことに気付いた。

「お前、上は?」
「もうめんどくさいから丸ごとあげた」

 そう言って笑うシゲに、呆れたように溜息をつく。
 いつの間にか、いつもの空気に戻っていて内心、ほっとする。
 荷物をとりに、教室に戻れば、卒業アルバムのフリースペースにコメントを寄越せ写真を撮れと、山のように女子が押し寄せてきて。
 これではいつまでたっても帰れないと、逃げるように廊下に出れば、シゲも似たような状況になっていた。
 視線が合えば、どちらともなく、頷き合って。
 
「あっ!」

 悲鳴にも似た声を、背中で聞きながら。
 全速力で二人、階段を駆け下りる。

「水野、シゲっ!18時におやっさんの…」
「わかってるっ!」「わぁっとるっ!」

 手すり越しに、叫ぶ高井に、二人同時に、怒鳴なる様に返して。
 感慨も何も、抱く間もなく、三年間通った校舎を後にした。



 

 人気の無い神社の石段に、腰を下ろす。
 もう誰も、追いかけてなど来ていないのに。
 何故だか、立ち止まる気にはなれなくて。
 二人、馬鹿みたいに此処まで、全速力のまま走ってきてしまった。
 お陰で、随分と心臓が煩い。
   
「はぁー…しんど…」
「何で、あんな…今日特に…しつこく、なかった…か?」

 まだ、整わない呼吸の下、何気なく零せば、シゲが、眼を眇めて、笑う。

「そりゃあ、兄さん…今日が最後、やから、やろ…」

 揶揄するように零された言葉に、思わず、手指を握りこんでいた。
 知らず、噛み締める唇。

「あぁ…そう…だな…」
「タツボン…?」

 怪訝そうに、覗き込んでくる視線から、逃れるように顔を背ける。
 その時ふと、頬に冷たい雫を、感じた。

「あ…」
「雨や…」

 ぽつり、ぽつり。
 翳した掌を、灰色の空から落ちる雫が、濡らす。
 ふと、先程の少女達の涙を、思い出す。
 石段を打つそれはどんどん、強くなって。
 生ぬるい早春の空気を、冷やす。

「上がるか」
「おぅ」
 
 見上げるのは、随分と長い石段。
 雨宿りするには、これを上って社に駆け込むのが、一番早い。
 不意に、シゲが上体を屈めた。
 丁度、走りこみの練習の時のそれのように。

「よーい…」
「え…っ?」
「ドンっ!」

 仕掛けられたのは、不意の勝負だったけれど。
 考えるより先に、身体が反応していて。
 遅れを取ることなく、足は石段を蹴っていた。

「同時…やな…」
「タッチの差で俺だろ」
「ありえませーん」

 本殿に駆け込んだ時にはもう、二人とも随分と濡れてしまっていた。
 濡れ萎んだ、後輩が胸に付けてくれたリボンの造花が、一層惨めさを強調する。
 ふと、視線をやった水野の眼が、見開かれる。 

「シゲ…お前…っ!」
「ん?」

 小首を傾げるシゲの頬を、黒い雫が、伝う。
 濡れたカッターシャツを、転々と、流れた黒が汚していた。
 見れば、黒彩は殆ど流れてしまって。
 殆ど、元の金髪に戻りかけていた。

「ベニスに死すかよ」

 それはまるで、古い映画の様で。
 思わず、笑えば、シゲが訳が分からないという様に小首を傾げるから。
 それが一層、可笑しくて。
 一人、笑い続ける水野に、怪訝そうに眉を顰めながら何気なく頬を拭って、袖口を汚す黒に、初めて、シゲが声を上げる。
 また、水野の笑い声が響いた。
 
「ないわぁ…」
 
 溜息混じりに、濡れ縁に腰を降ろすシゲに、鞄から取り出したタオルを、投げてやる。 
 
「汚れるで?」
「いいよ」

 頷いたけれど。
 黒く汚れていくタオルを見ながら、自分が先に使えばよかったと、少し、後悔した。
 
「サンキュ」
「ん」

 差し出すシゲは、もう、いつものそれで。
 すっかり黒が拭い去られた金髪が、乱れていた。
 二人、見つめるのは雨に打たれる石畳。
 冷えた空気が、濡れた身体に寒かった。

「18時までに止むかなぁ」
「どうやろなぁ…」

 交わすのは、何気ない会話。
 それでも。
 胸に突き刺さったままの言葉は、簡単には消えてくれなくて。
 知らず、また、握りこむ掌。

「桜、もうすぐやな」
「ん?あぁ…」

 見れば、境内に植えられた老木が、黒々と幹を濡らしていて。
 一杯に伸ばされた枝の蕾は、冬のそれに比べ、随分と柔くなっているように、見えた。
 けれど、あの桜が咲く頃には、シゲは、もう此処にはいない。
 
「去年皆で花見したよなぁ」
「あぁ」
「酒持ち込んだら自分ごっつ怒ったやん」
「当たり前だろ」

 何気なく、返すけれど。
 去年のことばかり話すシゲに、ちくり、胸が痛い。
 それはそのまま、もうすぐいなくなる事を示しているような気がして。
 知らず、声が小さくなるのが、自分でも分かる。

「さっきな…」

 不意に、遮るのは会話。
 一瞬、シゲは驚いたような顔をしたけれど。
 すぐに、続きを促してくれた。
 
「俺式の間中、眠かった」
「あ、俺寝とったで」

 「知ってる」と、続けながら。
 右手に握ったままの、卒業証書に、視線を落とす。
 
「卒業生の名前、呼ぶだろ?」
「うん」
「返事、しなきゃなんないじゃん」

 一人一人、起立して。
 はい。と、一言返事をする。
 卒業式の、メインとも言えるそれ。

「俺な、「藤村成樹」って呼ばれた時、な」
「…うん」
「一瞬、どきっとした」

 まだ、慣れないその苗字は、そのまま、シゲが離れていくことを伝えているような気がしたから。

「で、お前がすぐに、「はい」って立った時さ…」
「タツボン…」

 声が、震えていた。
 シゲの声が、戸惑うような色を滲ませたけれど。
 気付かない振りで、言葉を紡ぐ。

「少し…寂しかった…」

 躊躇いなく、立ち上がった背中は、その全てを、肯定していたような気がしたから。
 思わず、意地っ張りな自分に、本音を零させてしまうほどに。
 
「桜…」
「え?」

 顔を上げる。
 瞬きをすれば、温かい雫が一筋、頬を流れた。
 何処かに水仙が植えられているのだろうか。
 凛とした香りが、鼻腔を擽る。

「あの桜が咲く頃にはさ…」
「………」
 
 シゲが、俯く。
 濡れた、乱れた金髪の陰になって、表情が見えない。

「お前、いないんだな」

 此処に。
 自分の隣に。
 それは、どうしようもない事と、分かって、いるけれど。
 よく、分かっているけれど。
 どうしようもなく、寂しくて。
 また、一筋、涙が流れた。

「……シゲ…?」

 不意に、きつく抱きすくめられて。
 からんと、軽い音を立てて、筒が、地面に転がった。
 黒く汚れた肩口。
 つんと、鼻腔を突く、黒彩の匂い。
 濡れたカッターシャツは、いつもよりはっきりと、シゲの体温を伝えた。
 それが、ひどく愛おしくて。

「俺かて…寂しいわ…」

 呟かれた声は、小さくて。
 込められる腕の力に、その想いの深さを知る。
 微かに震える肩に、思わず、笑みを零していた。

「馬鹿。…自分から行くくせに」
「やけど…寂しいもん」

 子どもじみた言葉に、今度は声を立てて、笑う。
 いつの間にか、その息が白くなるほど、空気は冷えていた。
 そっと、黒く汚れた肩を、押し返す。

「タツボン…?」
 
 怪訝そうな声に、向けるのは笑い顔。

「けど、お前が真剣に、やりたいことやりに行くって言うのは…」

 潰れた涙が、頬を伝う。

「…凄く、嬉しい」
「―――っ」

 また、さっきより強い力で、抱きすくめてくるから。
 同じぐらい強い力で、抱きしめ返す。
 顔を上げれば、ぶつかる視線。
 どちらともなく、重ねた唇は、触れるだけのそれで。 
 すぐに離れたのを、自分から追いかけて、深く口付ける。
 一瞬、シゲが驚いた様に目を見開くのが、気配で分かった。
 けれど、一拍後には、応えてくれて。
 粘膜が触れ合う感触は、未だ慣れないけれど。
 それでも。
 いつもより深く、シゲを感じることの出来るそれは、決して嫌いではなかった。

「んぅ…」

 息苦しさに、切なげな吐息が、漏れる。
 微かな水音が、雨音と混り合う。
 ようやっと唇を離せば、伝う銀色の糸が、随分といやらしく見えて。
 思わず、視線を逸らす。

「竜、也…」
「―――っ」

 唐突に、きちんと名前を呼ばれて。
 思わず、眼を見開く。
 見詰め合う二人の目元は、どちらも赤い。
 シゲの眼が、ひどく嬉しそうに、笑った。

「ありがとう」
「ば…っ」

 何よりも素直な感謝の言葉に、面食らう。
 一層、目元が熱くなるのが、自分でも分かる。

「そんなの、礼を言う程のことじゃ、無いだろ…」

 俯いた頬が、熱い。
 それを隠すように、自然、口調が早くなる。
 
「お前が、自分で決めたんだから…」
「うん。…けど、嬉しいから」

 そっと、頬に伸ばされる手を、きつく、握りこむ。
 手を伸ばせば、すぐに触れることの出来る温もり。
 今まで、は。

「成、樹」
「―――っ」

 先程の自分と同じように、シゲが目を見開くのが、僅かに篭った手の力で、分かった。
 顔を、上げる。
 視界の端、映るのは桜。
 あの蕾が開く頃、シゲはもういないけれど。

「好きだ。…ずっと…」

 この想いは、変わらないから。
 
「成樹が、好きだよ…」

 だから、今はせめて。
 泣くことを赦して欲しいと、思う。

「うん…」

 黒く汚れた肩口。
 つんと、鼻腔を突く、黒彩の匂い。
 濡れたカッターシャツは、いつもよりはっきりと、シゲの体温を伝えた。
 それが、ひどく愛おしくて。

「俺も…竜也が好き…ずっと…ずっと、好き」

 きつくきつく。 
 抱きしめてくる声は、震えていて。
 切ない声が、胸に突き刺さる。
 自分の告白も、同じぐらい、シゲの胸に、突き刺さっただろうかと、思う。
 ぱたり、ぱたり。
 学ランの肩に、涙が落ちる。
 
「今だけな…」
「ん…」

 涙を流すことを、赦して欲しい。
 笑って先に進める様に。

 雨音が優しく、二人を包み込んでいた―。