乾いた、涼やかな風が、頬を撫でる。 
 夏の暑さはすっかりと遠退き、頭上の空は抜けるように青く、高い。

「坊ちゃんっ、走ってはいけません!」

 仁吉の、まだ少年らしい、少し掠れた声が響く。
 反射的に、それに続いていた。

「転びますよ、咳が出ますよっ」

 二人の声に、目の前の小さな背はぴたりと足を止め。
 振り返り、早くと、急かし、向けられるのは愛らしい笑み。
 ここ数日まで寝込んでいたけれど、今はもう、その幼い顔に病の影は無くて。
 今日は十五夜。
 祖父、伊三郎が、月見に使う芒を取ってきておくれと、佐助に頼み、自分も行くと、一太郎が言い出して。
 引かぬ幼子に、ならば自分もと、仁吉が腰を上げたのがつい先刻。
 久方ぶりの外出に、はしゃぐその姿に自然、二人の目元も和んだ。

「そう急がなくても…芒は逃げません」

 言いながら、仁吉が、まだ小さな己の手を、一太郎のそれに絡ませる。
 素直に手を引かれながら、一太郎は佐助にも、その手を伸ばしてきた。
 それに応えるように、柔く微笑んで、そっと、小さな手と手を繋いでやる。
 嬉しそうに笑う一太郎の瞳が、ふと、あるものを捉え、立ち止まる。
 くいと、二人の手を引いた。

「ねぇ、花がいっぱいっ!」

 歓声に、二人、視線を投げれば社の境内、群れて咲くのは曼珠沙華。 
 一面を紅く染め、風に揺れるそれはまるで燃えるよう。
 いっそ禍々しいまでに、佐助の目に映った。
 思わず、寄せられる眉根。
 ところが、無垢な幼子の目には、そうは映らなかったようで。
 
「持って帰ったら、おっかさん、喜ぶかなぁ」
「いけませんっ!」

 駆け寄り、手折ろうとするのその手を、思わず、掴んでいた。

「…佐助?どうしたの…?」

 突然、大きな声に止められた、きょとんとした瞳に見上げられ、初めて、己の顔が強張っているのを知る。
 慌てて取り繕う笑顔も、少し引き攣っているのが、己で分かった。

「その花は…匂いが、そう、匂いがきついですから…」

 言われ、初めて気付いたのか、一太郎は花に顔を近づけ香を嗅ぐ。
 すぐに顔をしかめたのに、佐助は思わず、ほっと安堵していた。

「さぁ、もう行きましょう。おくまさんがお団子を作って待ってくれてますよ」

 小さな背を促せば、素直に立ち上がり。
 最後に、もう一度名残惜しげに、紅い群れを振り返る一太郎。

「綺麗なのにね…」

 零れた呟きに、佐助はただ、苦笑を返すだけだった。
 その様を、ただ黙って傍らで見つめる仁吉の視線に気付き、また、零れる苦い笑い。
 
「笑うかい?」
「…いや」

 ゆるく微笑し、首を振る仁吉。
 その目に滲む優しい色に、つられ、笑みが零れた。
 曼珠沙華を家の内に持ち込めば、火を招く。
 そんな事は下らない迷信だと、己でも分かっているけれど。
 燃えるように咲く、あの禍々しいまでに紅い花は、どうしても、佐助は好きになれなかった。

「さぁ、坊ちゃん、これ以上は疲れてはいけませんから」

 仁吉の声に、一太郎は不服そうに頬を膨らます。
 それには頓着せずに、背に負ぶってしまうのに、思わず漏れる苦笑。
 一太郎を宥めて、すかしている間にも、芒が群れる川原について。

「わぁ…っ」

 ふわふわと揺れる淡く白いそれに、一太郎の不機嫌もどこかへ消えたよう。

「葉で指を切りますから気をつけて。綿が耳に入らないように…」

 次々と降ってくる仁吉の小言は右から左へ。
 一太郎の背丈よりも高い淡い群れの中、仕方なくその両の耳をそっと押さえてやりながら、手を切らぬよう、己の指を添えて、何本か芒を手折る。

「…来て良かったみたいだね」
「あぁ」

 楽しげな横顔に、二人、絡んだ視線は笑みへと変わる。
 程なくして、両手にいっぱいに芒を摘んで、日が暮れる前にと、家路を急ぐ。
 やはり疲れたのか、今度は素直に、仁吉の背に身を預けた一太郎は、帰り着く頃には寝息を立てていて。
出迎えた伊三郎が、苦笑を浮かべていた。



「今日はありがとうよ。後は私が見てるから、休んで良いよ」

 そんな伊三郎の言葉に、二人並んで、部屋を辞す。
 昼間、仁吉の背で存分に寝たお陰か、月が上る頃まで、一太郎は起きていることができた。
 おくまが作ってくれた供え団子を頬張りながら、三人眺めた月は、黄金色に輝いて。
 ひどく、綺麗だった。
 その月を眺めながら、仁吉が語って聞かせた大陸の月の伝説を寝物語に、一太郎は眠りに就いた。
 先の宴を思い出し、自然、佐助の口元に、笑みが浮かぶ。

「……」
「え?」

 不意に、何事か呟いた仁吉の、その聞きなれぬ音に、佐助が顔を上げる。
 小首を傾げれば、微笑して、もう一度繰り返されるそれは、やはり、聞き取れない。
 その様に苦笑して、仁吉が筆を取った。

「相思花?」

 書かれた文字を読み上げれば、仁吉が頷く。
 僅かに、己を見上げる目は、ひどく優しい微笑を湛えて。

「曼珠沙華のことを、大陸ではそう呼ぶんだよ」

 言われ、思い出すのはあの紅い花。
 思わず、眉根を寄せる佐助に、仁吉は微かに苦笑を零して。
 ゆっくりと、相思花の由来を語りだす。

「この国では随分嫌われてるみたいだけどね…」

 大陸では、曼珠沙華は悲愛の花として、人々に好まれているという。

「曼珠沙華は最初に花を咲かせて、その後に、葉が出るだろう?それが相想いだけど、中々逢えない二人になぞらえられてるのさ」

 語る仁吉の瞳には、懐かしげな色が浮かぶ。
 その言葉で、仁吉にその話を教えたのが、誰か、佐助には見当がついて。
 燃えるような紅は、互いの想いの色なのか。
 そう思えば少し、あの禍々しさも和らぐ気がして。

「へぇ…そんな名前もあるんだねぇ…」

 呟く声も、書かれた字を見つめる横顔にも、昼間のような硬さは無かった。
 その様子に、仁吉から小さく、笑みが零され。
 視線を上げれば、ぶつかるのは、やはり、ひどく優しげな色を湛えた瞳。
 そっと、伸ばされた手が、頬を撫でる。
 ひんやりとした、心地良さに、知らず、目を細めた。

「毎年、秋が近づく度、そんな剣呑な顔されても困るからねぇ」

 口調は、揶揄するそれだけれど。
 声は、ひどく優しくて。
 己の曼珠沙華への、恐怖にも似た思いを拭うために、口にしたのだと気づく。
 
「ありがとうよ」

 小さく、礼を言えば、瞼に一つ、口付けを落とされ。
 己に注がれる思いの深さを知る。
 それはひどく、心地良くて。
 相思花よりも深く、己に注がれ、相思花と違い、触れることの出来るそれに、佐助はそっと、笑みを零す。
 開け放たれた障子から差し込む、黄金色の光が、相想い合う心を、包み込んでいた―。