身を切るような冷たさの風が、容赦なく方を頬を嬲る。
 思わず身を縮込ませながら、廻船問屋の店先で、番頭と話しをしている時だった。
 視界の端を、一人の女中が、通り過ぎる。
 寒さに丸くなった背中から、乾いた咳が聞こえた。
 細い項が、薄ら寒い。
「お前さん、ちょっとお待ち」
 呼び止め、近づくと、買出しにでも出かける途中だったのか、女中は唐突に自分を呼び止めた佐助を、
小首を傾げて振り返った。
「風邪を引いてるんじゃそれじゃ寒いだろう。これをしていきな」
 そう言って、女中の返事も聞かずに、いつも一太郎にしているのと同じ動作で、
自分がしていた襟巻きを巻いてやる。
 いきなり自分の首筋を包んだ暖かさに、女中は驚いて目を見開いた後、慌てて返そうと、
自分の首に手を伸ばした。
「そ、そんな良いですよ」
「風邪のときに首を冷やしちゃいけないだろう。あたしたち奉公人は体が資本なんだから」
 その手を遮り、佐助はにこりと屈託のない笑顔を女中に向ける。
 いつもどこか怖いように感じていたこの長身の男から不意に受けた親切に、女中は戸惑いながらも、
小さく笑って、礼を言い、店の外へと出かけて行った。


「…あのお人好しが」
 思わず、呟く。
 一段と冷え込んだこの寒空の下、他人に襟巻きを貸してやったりしたら自分が寒いだろうにと、
仁吉はその形の良い眉を寄せた。
 人一倍寒さには弱いくせに。
 籐兵衛に呼ばれた帰り、何気なく覗いた廻船問屋の店先での出来事に仁吉は軽く、舌打ちをする。
 佐助は気づいていないようだったが、あの女中の頬が、風邪のそれでなく赤らんだのを、
その瞳がぼぅっと潤んでいたのを、仁吉は見逃さなかった。
 視線の先にいる、先程よりも一層、寒さに身を竦める相方には声を掛けずに、
仁吉は薬種問屋へと戻って行った。

 一日の仕事が終わり、ほっと息を吐く。
 離れで待っているであろう一太郎たちと相伴するべく、仁吉はその足を速めた。
 足袋の裏からでも伝わってくる廊下の冷たさに、足先の感覚が失われるほどに冷える。
 一太郎の部屋の火鉢の墨の残りはいくらほどだったかと、考えを巡らせていた時だった。
 仁吉の視線の先に、昼間の女中の影を見つけたのは。
 その手には、大事そうに佐助の襟巻きが持たれていた。
 仁吉の切れ長の目が、すっと細められる。
 一瞬、その目に、剣呑な光が宿り、黒目が猫のそれのように細くなった。
「どうしたんですか?」
 突然背後から呼びかけられ、驚いて振り向いた女中は、自分を呼んだのが昼間襟巻きを貸してくれた佐助の相方だと見止めた途端、
さっと頬を赤らめた。
「あ・・・仁吉さん。あの・・・佐助さんに昼間襟巻きを貸していただいたものだから返しに行こうと・・・」
 指し示された手の中襟巻きを、仁吉はひょいと取り上げた。
 にっこりと、女に対して一番効果的な笑顔を、他人から綺麗だと賞賛される顔に乗せる。
「わざわざすまないね。これはあたしが届けとくよ」
 自分に向けられた、役者のようだと噂される整った顔立ちの男の笑顔に、女中の目が、
ぼうっと、昼間のそれよりも潤む。
「あ・・・ありがとうございます。あの…佐助さんって意外に優しいんですね」
 惚けた様に自分の顔を見上げながら、媚入るように付け足した女中に、
「この尻軽が」と唾棄したくなるような衝動が突き上げる。
 けれどそんなことは億尾にも出さず、にこりと笑って頷くと、不意にその綺麗な顔を女中に近づけ、
己の額と女中の額をひたとくっ付けた。
「少し声が掠れているね。熱は無い様だが…気をつけて」
 いかにもといった様に心配げに眉根を寄せながら顔を離すと、女中の顔は面白いぐらい赤くなっていて、
仁吉は内心、にやりと口角を吊り上げる。
「じゃ…じゃあ私はこれでし…失礼します・・・」
 寸の間、ぼうっと瞳を潤ませていた女中は、はっと我に返ると、何度も口篭りながらようやっとそれだけ言うと、
踵を返して去っていった。
 その背が、何度もこちらを振り返るのに、仁吉は態と気づかぬ振りをして、足早に離れへ急ぐ。
 自分でそうなるように仕向けておきながら、背中に張り付く媚態を含んだ視線を振り払うかのように、
ぎりっと音がするぐらいに奥歯を噛み締めた。
『あんな不細工な尻軽が佐助に近づこうとした…』
 そう思うだけで、背筋にぞっと怖気が走る。
『優しいだって?そうだよ。佐助は優しい。あたしと違ってね。…今頃気づいたお前に何が分かるって言うんだい』
 苛立つ。
 あの女の口から、佐助の名前が出ただけでも、おぞましかった。
 
佐助は優しい。
 自分と違ってそこには何の打算も策略も無い。
 作り物ではないそれは、ひどく人を惹き付ける。
 本人の意識の範疇外で。
 そしてこんな風に愚かしい女を勘違いさせることも、多々あった。
 その度に仁吉が、こうやって引き離してきた。
 怖気が走るような女共の為でも、佐助はその心を割くだろうから。
 その優しさで触れようとするだから。
 その為に佐助が心を痛ませるなんてことは、仁吉は絶対に許せなかった。

「・・・・・あんな尻軽。二度と近づけさせるもんかね」
 低く呟いた、その言葉が白い吐息となって消える前に、目の前の戸がからりと開く。
 暖かな光共にひょいと顔を覗かせたのは佐助だった。
「遅かったね。先に食べてるよ」
 屈託無く自分に向けられる笑顔に、先程までの苛立ちが、すっと消えていくのが分かる。
「これを預かってね」
 そう言って襟巻きを差し出すと、佐助は「あぁ」と、まるで今の今まで忘れていたかのように呟きながら受け取り、
無造作に部屋の隅に放った。
「わざわざすまなかったね。さ…っ早く座りなよ」
 その所作には、あの女中に対して何の感情も抱いてなかったのが、よく現れていて、
どこかでほっと安堵する。
 後ろ手で障子を閉めながら、暖かな部屋の空気と、自分に向けられる笑顔に、
仁吉の口元にも柔らかな笑みが、浮ぶ。
「この笑顔はあたしのんだ…」
 小さく呟かれた言葉に、隣に座る一太郎が、「何か言ったかい?」と小首を傾げるのに、微笑を浮かべ首を振る。
 そう誰にも、この空間を壊させはしないと、仁吉はその心の奥底で、強く思ったのだった―。