障子の前に立つと、中から聞こえて来たのは微かな忍び笑い。
「若だんな?何やってるんですか?」
 開けながら、問いかけると、、一太郎は応えず、しっと口元に人差し指を立てる。
 その所作に小首を傾げ、手招きされるままに傍に寄ると、思わず眉間に皺を寄せてしまった。
「屏風のぞき…居候の癖に主人の布団で寝るなんて…」
 言いながら、何故か一太郎の布団で寝息を立てる屏風のぞきを叩き起こそうと手を掛ける。
 その手を、一太郎の細い手が遮った。
「私が身代わりを頼んだんだよ」
 その言葉に、辺りを見回せば、鳴家たちが機嫌よく、ついさっき買ってきたらしい、饅頭を頬張っている。
 いつもならそれだけで騒ぎになりそうなのに、皆静かにしているのは一太郎の命か。
 仁吉はいろんな意味を込めて、呆れたように溜息を一つ吐く。
「若だんな。お優しいのは良いですけどね。あんまりこいつらを甘やかすのは…」
「おや、仁吉だって屏風のぞきのことを何だかんだでかまってるじゃないか」
 口角を吊り上げて揶揄するように笑うこの所作は一体誰に似たのか。
 相方の佐助が見たらこめかみを押さえそうな表情も、仁吉は方眉を器用に上げるだけでやり過ごす。
 屏風のぞきが起きていれば、全力で否定し、面白いぐらいに狼狽しただろう。
「良く寝てるんだから…可哀想だから起こしちゃあ駄目だよ。…今日は廻船問屋の方は暇らしいからね。私は兄さんと菓子でも食べてくるよ」
 「今日は加減が良いから兄さんのところに顔を出さないと」と付け足して仁吉の小言が飛んでくる前に巧く逃げてしまった。
 諦めたように溜息を一つ吐いて、残される形となった仁吉は、己の傍らで穏やかな寝息を立てる男を見遣る。
「全く…。身代わりが本気で寝扱けてどうすんだい」
 呆れ、呟いた言葉は、誰に受け止められることなく、部屋の空気に溶けて消えた。
 開け放たれた障子から差し込む、すっかり春めいた日差しは暖かい。
 庭の白梅が、名残惜しげに一枚、またその白い花弁を散らした。
 最近、一斉に芽吹き始めた春の草花の間を、何処からか飛んできた紋白蝶が、ふわりと飛ぶ。
 菓子などとうに食べ終えてしまったのか、いつの間にか鳴家たちも、その姿を影に消していた。
 不意に訪れた静寂。
 のんびりとした空気が満ちる。
 確かにそれは、眠気を誘うもので。
 音の無い部屋に、規則正しい穏やかな寝息だけが生まれては消える。

 ここ数日間でようやく落ち着いたものの、つい先日までは、一太郎は寝付いていた。
 それを屏風のぞきが、不寝の番で看ていたのは、傍で看病していた仁吉も良く知っている。
 己の傍らで、心配気に一太郎を見つめていたのを。
 その疲れが、落ち着いて安心した今、出てきたのだろう。
 扇状の長い睫に縁取られた目元には、はっきりと隈が浮かび上がっていた。
 寝息を立てる、微かにやつれたその白い頬に、仁吉はそっと微笑を零す。
 その表情は、ひどく優し気で。
「若だんなの命だからね。…今日だけはゆっくりさせてやるよ」
 呟いた声は、やはり、誰に受け止められることなく、穏やかに満ち足りた部屋の空気に溶けて消えた―。
 


「……」
 ぼんやりとした意識に映る視界。
 春の庭を映したそれは、再び意識を眠りの中に引きずり込もうとするもので。
 寝返りを打とうとして、己が一太郎の布団で寝ていることに気付いて、はたと、寝扱けていた事実に気付く。
「やっと起きたのかい」
 唐突に上から降ってきた声に、全身の神経が張り詰める。
 何て間の悪いと、己のしくじりを呪った所でもう遅い。
 殴り飛ばされる前にと、寝起きの回らぬ舌で、それでも早口に口を開く。
「―っ?に、仁吉さんっ?違うよっ若だんなに頼まれて…っ」
「分かってるよ。五月蝿いね」
 うっとうしげに眉根を寄せる目は、けれど怒っている風ではなくて。 
 一先ず、殴られる気配の無いことに安堵する。
「……若だんなは…?」
 仁吉がのんきに此処にいるということは、もう帰ってきたのだろうか?
「とうに帰って来てなさるよ。…ほら、お前さんの分だとさ」
 そう言って差し出された、懐紙に包まれた2つの饅頭を受け取りながら、だったら起こしてくれれば良いじゃないかと、内心、一太郎に愚痴を言う。
「…アンタも起こしてくれればいいじゃないか」
 饅頭を頬張りながら、もそもそと言うと、珍しく、棘の無い声が返ってきた。
「お前さんも先の看病で疲れてたみたいだからね。…若だんなが起こすなと」
「そ…そんな…」
 事は無いと言おうとして、寝扱けてしまった事実は揺るがないから、黙って饅頭にかぶりつく。
「ほら」
 差し出されたのは、温かな湯気を立てる湯のみ。
 あの仁吉が自分のために茶を入れてくれたのかと、屏風のぞきは驚いて目を見開いた。
「な…何か悪いモンでも入れたのかい?」
 思わず、半身引きながらそう言うと、仁吉が不機嫌そうに眉根を寄る。
「お前なんかに使うような余分な薬なんか無いよ」
 言われ、それもそうかと納得する自分が、少し悲しい。
 恐る恐るといった体で受取り、口を付けるそれは常と変わらぬ味で、温かい。
 口腔内に広がる、心地よい苦味のある、温かさ。
 ほっと、心和むその温かさに、目元が和らぐ。
 ふと、視線を感じて顔を上げると仁吉がじっとこちらを見ていた。 
 その目元が、ひどく優しげに見えて、屏風のぞきは戸惑う。
「な…何だい…?」
「いや…若だんなが病に掛かる度に…そう言えばお前さん、いつも不寝の番をしてくれてたなと思ってね」
 優しげな目で、微笑され、屏風のぞきは知らず、己の目元が熱くなるのを感じた。
「そ…そんなの…大事な若だんなだもの…」
「そうだねぇ」
 のんびりとした応えに、屏風のぞきは「それに」と言い募る。
「不寝の番なのはあんた達だって一緒だろう」
 そう言って、再び湯飲みに口を付ける。
 ふと視線を落とした先、膝の上に置かれた懐紙の上にちょんと乗る、もう一つの残りの饅頭。
 一瞬、逡巡した後、屏風のぞきは黙ってそれを仁吉に差し出した。
「…なんだい?いらないのかい?」
「やるよ」
「今日のは上出来だったんだろう?若だんなが言ってたよ」
 小首をかしげる仁吉に、屏風のぞきは、湯飲みに口を付けることで器用に視線を逸らしながら、早口に言う。
「あんただって疲れてんだろう。…あ、甘いものは滋養があるって、あんた若だんなにいつも言ってるじゃないか」
 一瞬、惚けた様に、此方を見つめた後、仁吉はふっと吹き出した。
 かっと、また、目元が熱くなる。
「い…っいらないなら返しとくれっ」
「いやいや…ありがたく貰っておくよ」
 くつくつと、喉の奥で押し殺した様な忍び笑いが、神経を逆なでする。
 それでも、懐紙から取り出したそれに口を付ける仁吉に、屏風のぞきの口元に、知らず、浮かぶ微笑。
 柔らかい春の空気に満ちた部屋を、二人の、微かな笑い声が揺らす。

 今日は仁吉がひどく優しかった。
 それはとても珍しいこと。
 だから自分が、それに、常とは違う行動で返してみても、良いんじゃないかと思う。

「今日だけ…ね」
 ゆるく微笑して、呟く。
「何か言ったかい?」
 仁吉の問いかけに、軽く首を左右に振って、屏風のぞきは飲み終えた湯飲みをそっと文机の上に置いた。


 文机の上に置かれた白い紙が、春の日差しを白く跳ね返していた―。