「………」
何度目か、分からぬ溜息。
文机の上、暇に任せて描き散らした絵が、風に嬲られ、乾いた音を立てて、畳の上へと滑り落ちる。
それを目で、追いながら。
拾うことすら、億劫で、また、溜息。
退屈だと、心底思う。
「まったく…。どうして病なぞ流行るのかしら…」
最近、お江戸では、病が流行っているらしい。
何でも高熱が出て、身体の弱い年寄り子供は、命まで取られかねないとか。
当然、誰より身体が弱い一太郎だ。
周囲は用心に用心を重ねて、例のごとく、離れから一歩も、出しては貰えなかった。
「若だんな。お八つを…おや」
開け放った障子の向こう。
掛けられた声に、弾かれた様に、顔を上げる。
「兄さんっ!」
思わず、笑みが広がるのが、自分でも、分かる。
もう、皐月も終わると言うのに。
念には念をと、一太郎の口に入るものは全て、火を通してからと。
温かな湯気を立てる汁粉椀を、盆に載せて持ってきてくれた松之助が、不意に、屈み込んだ。
「落ちてますよ」
かさりと、拾い上げられたのは、先程、風に遊ばせるままにしていた、絵。
手渡され、慌てて、文机の上のものと一緒に、仕舞いこむ。
巧い上手だと、周囲は褒めてくれるけれど。
やはり、すぐ傍で、見られるのは気恥ずかしかった。
「巧いですね」
「―――っ」
不意に、背後から。
覗き込まれて、その近すぎる位置に、息を呑む。
「あ、りがとう…」
応える声が、微かに詰まる。
少し、頬が熱い。
「若だんな?」
どうしたと、小首を傾げる松之助に、心配されるその前に。
盆に置かれた、温かな湯気を立てる椀を、手に取る。
ふんわりと匂う餡が一層、その熱を、一層、強調させて。
もう日差しは、夏のそれを孕み始めていると言うのに。
手の中のそれは、真冬にふさわしい温度。
「……まぁ、気をつけなきゃならないのは…分かるんだけどね…」
引っ込んでいた溜息が、また、零れてしまう。
零された言葉に、全てを察したのか、松之助から零れる、苦笑い。
それに、促されるように、つい、零れてしまう、愚痴の言葉。
「こうも毎日、引きこもってばかりもねぇ…」
「けど、本当に、もし病を拾うようなことになれば…」
それは分かっているんだと、頷く。
それでも。
頭で分かっていても、納得できないことは、あるもので。
何度目か分からない溜息を零せば、ふうわり、頭を撫でられる。
「退屈、ですよね…」
苦笑交じりの言葉に、無言で、頷く。
また、頬に熱が、集中するのが、己でも分かる。
「慣れっこ、だけど、…」
呟けば、微笑を浮かべる松之助と、なんとなく、視線を合わすのが気恥ずかしくて。
汁粉を啜ることで器用に、視線を逸らす。
「あっつ…!」
唐突に唇に触れた熱に、思わず、反射的に椀を離す。
「大丈夫ですかっ?」
心配そうに眉根を寄せて。
近すぎる距離で覗き込まれて、面食らう。
「あ、ちょっと…舌火傷しただけ、だよ…」
思わず、身を引いてしまいながら。
告げれば、一層、心配そうに覗き込まれて、しまう。
「すみません。熱かったですよね」
すまなそうに眉尻を下げるのに、慌てて、首を振る。
これ以上、心配される前にと、話の矛先を、変える。
「兄さん、仕事に戻らなくて良いの?」
常なら、菓子を届けたら、すぐに仕事に戻ってしまうのに。
珍しく立つ気配の無い松之助に、小首を傾げて問いかければ、返って来るのは、苦笑い。
「佐助さんが、若だんながそろそろ抜け出す頃だから、ついてろと」
「な、何それ…」
確かに、もうそろそろ、三春屋にぐらいなら…と、屏風のぞきに身代わりを頼み込もうかしらと、考えてはいたけれど。
見透かされると、やはり、不満に唇が尖る。
「別に私だってちゃんと…」
「でも、退屈なんでしょう?」
ふうわり、また、髪を撫でられ、言い募る言葉が、消える。
「まぁ…兄さんと一緒にいれるのは、嬉しいけどさ…」
小さく、零せば、松之助の視線が、戸惑うように、揺れる。
その目元が、僅かに赤くなっていて。
思わず、笑が浮かぶ。
「ねぇ、兄さん」
「はい?」
にこり、向けるのは笑い顔。
小さく、舌を出して。
「舌、やっぱりちょっと痛いや」
「やはり、仁吉さんにでも診て貰った方が…」
途端に、心配そうに眉根を寄せて、席を立とうとするのを、手を引いて、引き止める。
「大丈夫、そんなに大したことないから」
「でも…」
尚も、心配そうに眉尻を下げる松之助に、向けるのは笑い顔。
「なら、兄さんが診て」
「え…?……っん」
取ったままの手を、引き寄せて。
驚いた様に目を見開く、その頬に手を添えて。
何か言いかけるその唇を、塞ぐ。
薄く開いた唇から、舌を差し込んで。
少し強引に、松之助の舌を、絡め取る。
「ふ、ぅ…っ」
薄く、眼を開いた先。
朱に染まる目元が、愛おしい。
「ん……っ若だんなっ」
唇を離した途端。
耳まで赤くして、詰る松之助の、その唇に。
今度は、触れるだけの、口付けを一つ。
「一太郎」
名前で呼んでと、軽く睨みつければ、松之助の眼が、僅かに見開かれた後、諦めたような、溜息が一つ。
「……一太郎…」
「うん?」
上機嫌の笑い顔で、小首を傾げれば、松之助は何か言いたそうに、唇を開きかけたけれど。
結局、それは溜息に変わるだけだった。
「…大人しくしてるんだよ」
「兄さんがいてくれるなら」
笑い告げれば、松之助の頬が、一層朱に染まって。
そんな様に、一太郎は一人、満足そうに、笑った。