どこをどう歩いて来たのか、あれからどれ程日がたったのか、犬神には分からなかった。
幾日も過ぎたような気もするし、まだ一日も進んでいないような気さえ、する。
手足の傷が消えてはいないから、そんなに日は経っていないのだろうか。
けれど、そんなことはもう、犬神にはどうでも良くて。
友は死んだ。
桃は死んだ。
その事実が、犬神から全ての思考を奪い去っていた。
「……」
ぎちり、肉の軋む音がする。
口腔内に広がる、錆びた鉄の味。
剥がれた爪は、血を止め、薄皮を張り治ろうとする度に、犬神自身が牙を立てるので、いつまでも癒えることが無いどころか、いっそう酷く、痛みを、熱を孕んでいた。
今も、赤い柘榴のように爆ぜた肉を露出させ、血が流れる。
その痛みは、熱は、疎ましいけれど、意識を眠らせないことには、役立っていて。
犬神は、眠るのが怖かった。
眠り、目覚め、そこに友がいない事を認識させられ続けるのが、怖かった。
―起きていれば、桃に会えるかもしれない―
何時しかそんな、叶わぬ幻さえ、抱き始めて。
それでも、犬神がその足を止めることなく歩き続けたのは、ただ、己の意識に響く、呼び声に、導かれていたから。
あの見世物小屋にいる時も、それ以前もずっと、頭の中に響く声。
ひどく暖かく、優しいそれは、あの夜、桃を失った夜から一層強く、犬神の意識に響いて。
眠らぬ所為か、痛みの所為か、虚ろな意識のまま、ただ歩き続けた。
夜の闇の中、眠ることを厭い、ただ、歩く。
幾日も眠らぬ、傷ついた体は酷く重かったけれど。
立ち止まり、眠ってしまうことの方が、犬神には怖かった。
目の前、聳えるのは黒い塊となった、深い森。
吹き荒ぶ、まだ冷たい春の夜風に、木々がうねりを上げて、葉を揺らす。
今宵は満月、銀色の光が、森の、山の入り口に立つ、犬神を照らしている。
それは、まるで、桃と初めて会った時のようだった。
気がつけば、己の意識の全てを埋め尽くすほどになっていた呼び声が、ぴたりと止んでいて。
―……どうしたんだろう…?―
知らず、小首をかしげた時。
奥の茂みが、がさりと、風のそれでなく、揺れた。
「おいで、犬神」
その声は、いままでずっと、意識の中、響いていたのと同じもの。
ずっと、生まれたときからずっと、知っていた声。
己を、生み出した人の、声。
無意識だけれど、いつも、求めていた、声。
「大師…さ、ま…っ」
何日も言葉を紡ぐ事など、声を発することなど無かった喉は、強く乾き、舌はもつれたけれど。
犬神の唇は自然、その名を呼んでいた。
傷つき、よろめく足は、それでも、その人の下へ駆け出して。
「よく来たね…」
抱きとめ、包み込む腕は優しく、温かい。
泥と埃にまみれ、もつれた髪を、そっと梳いてくる手が心地良かった。
こんな安堵感を感じたことなど、本当に、久方ぶりで。
きゅうと、真黒い袈裟を掴む小さな指に、力が篭る。
確かなそれに、ぼろり、涙が零れた。
会いたかった。
触れたかった。
触れられたかった。
今まで忘れていた感情が、一息に溢れ出し、犬神を押し流す。
「…っく…大師…っさ…」
しゃくりあげる声は、歳相応の弱さを見せて。
汚れた、幼い頬を涙が洗う。
「よく来た…本当に…よく来たね…」
繰り返される言葉は、ひどく穏やかで優しく、耳に心地良い。
震える背を、何度も何度も、大師の手が撫でる。
強張った身体から、ゆっくりと、力が抜けていく。
「だからもう…今はお休み…」
そっと、大師の掌が、温かく、大きなそれが、犬神の目を覆う。
途端、ふわりと、体が浮いた気がした。
犬神が、覚えているのはそこまでだった―。
「随分辛い目に遭ってきたみたいだね…」
変化の解けた、小さな小さな仔犬を抱いた大師の呟きが、木々のざわめきに攫われ、消える。
白い狩衣を、夜目にも分かるほどにどす黒く染めていた血に、一瞬血の気が引く思いがしたけれど。
腕に抱きとめた幼子は、確かに傷だらけだったけれど、多量の出血を伴うほどの傷は無く、大師はほっと、安堵した。
「……」
手に、足に、細かに残るあざが痛々しい。
爪が剥がれ、肉の潰れた小さな指先に、大師はきつく、眉根を寄せた。
妖の仕業にしては生温く、自分で負った怪我にしては、不自然で。
ならばと、行き着く思考に一層、大師の眉が、悲しげに寄せられる。
「人か…」
犬神には、強大な力を授けた。
常なら、こんな風に手酷い傷を負うことなどありえない。
きゅっと、きつく握り締められた、袈裟に滲む、犬神の血。
その小さな血痕に、人を護り、慈しむ心を授けた故かと思うと、ずくり、胸が痛む。
けれどそれは、自ら人を傷つけることの無いことも、現していて。
「なら、あの狩衣は…」
腕の中で静かに寝息を立てる子犬の、涙の後をそっと拭ってやりながら、湧き上がる疑問符よりも、今必要なのは治療と庇護だと、森の中、大師はくるり、踵を返した。