「―――ぅ…」

 闇に響く、微かな呻き声に、大師はふっと、目を覚ます。
 またかと、思わず、眉根を寄せていた。

「大丈夫だよ犬神…大丈夫…」

 そっと、涙を流す両の瞼に手を翳し、直接、意識に語りかけるように、宥めてやる。
 
「大丈夫…」

 何度も、何度も、繰り返し。
 小さな、まだ晒しの取れない手を、きゅっと握ってやりながら。
 やがて再び、幼い寝顔は、安らかな寝息を立て始めて。
 ほっと、安堵の息をつく反面、犬神を見つめる大師の目には、苦しげな色が、浮ぶ。
 あの日から、犬神は三日、眠り続けた。
 それ程までに、小さな身体は傷つき、疲弊しきっていたのだ。
 その上に、これだ。
 目覚めてからの犬神は、決して、眠ろうとはしない。
 それを、半ば無理矢理、眠りに就かせれば、いつも夜中、うなされ、涙を流す。
 
「………」

 そっと、まだ柔らかな手を、取る。
 昼間は決して、触らせようとも、見せようともしないから。
 血の滲む晒しが、不釣合いで、一層、痛々しい。
 本来なら、もう血は止まり、薄皮が張り、治癒して良いはずなのに。
 良く見れば、指先の晒しが、噛み切られたようにぼろぼろになっていた。

「自分で噛んだのか…」

 一体、何がそうさせるのか。
 問いただすのは、簡単だけれど。
 大師は犬神の口から、真実を告げて欲しいと、願っていた。
 起こさぬように、そっと、結び目を解いて。
 真新しいそれに、変えてやる。
 
「一体…何があったんだい…?」

 大師の呟きは、誰に受け止められることなく、寝間の薄闇に溶け消えた。




「犬神…?」

 朝餉の後、その姿が見えなくて。
 何気なく、覗いた中庭の隅。
 ひどく慌てた様子で、駆け寄ってくる幼子を、ふわり、抱き止める。
 
「何処に行っていたんだい?」
「花が、咲いていて…」

 笑う頬が、微かに、青ざめていた。
 目が、赤い。
 袈裟を握る手が、小刻みに震えていた。
 春の日差しは、汗ばむほどに、温かいというのに。

「そうかい…ちょっと先に、部屋に戻っておいてくれるかな?」

 くしゃり、頭を撫でて。
 その全部に、気付かぬふりを、してやる。
 素直に頷いた小さな影が、部屋に戻ったのを確認して。
 今し方、犬神が飛び出してきた茂みの奥を、覗き込む。
 咲き乱れる、花の香に混じって、鼻腔を突く、饐えた臭い。

「やはり…吐いていたのか」

 茂みの根元。
 汚す吐瀉物に、大師はきつく、眉根を寄せた。
 予想通りの出来事に、思わず、目を閉じる。
 犬神は此処に着てから、否、恐らくここに来る以前から、殆ど何も、食べてはいない。
 
―食べられない…のか…?―

 何か、心に辛いことがあり、それが、眠ることを、食べることを…生きることを、阻んでいるのか。
 一体何が、そうなるまでに、あの幼い心を追い詰めるのか。
 
「いつまでも、騙されてはあげられないよ…」

 続くようなら、無理にでも、聞き出すしかない。
 場合によっては直接、犬神の意識を覗くことになるかもしれない。
 それだけは、大師は避けたいと、思う。

「大師様…?」

 簀子の上、不安げに掛けられる声に、笑い顔を用意して、振り仰ぐ。
 
「本当だ。綺麗な草花が咲いているね」

 指し示すのは、名も知らぬ、小さな花。
 犬神が、安堵したように、笑った。
 その笑顔は、本当に、年相応で、愛らしい。
 
「大師様、宜しいですか?」

 不意に、割って入った声に、振り返れば、若い僧侶が立っていた。
 その目が一瞬、犬神に向けられ、それはすぐに逸らされたけれど。
 その瞳に映った、奇異の色に、大師は内心で、苦笑する。
 大師の式はそこらじゅうにいるというのに。
 この若い青年は未だ、慣れぬらしい。
 
「ああ、良いよ」

 答え、二言、三言、言葉を交わす。
 ただ、それだけだったのに。

「犬神…?」

 視線を戻した簀子の上。
 怯えるように、蹲り、震える犬神に、大師は目を見開いた。
 慌てて、駆け上がり、抱上げる。
 しがみついて来る指が、痛いほどだった。

「大師様…?」

 驚いたような若い僧の声に、振り返れば、怪訝そうに犬神を見つめていて。
 その視線から逃れるように、一層、大師にすがり付いてくる。

「大丈夫だよ。ありがとう」

 笑い、告げれば、青年は小首を傾げながら、それでも、務めがあるのか、去って行く。

「犬神…?どうしたんだい?」
 
 宥めるように何度も、その背を撫でてやる。
 見開かれた瞳は、恐怖に塗りつぶされていて。
 単なる人見知りにしては、度が過ぎていた。
 また一つ、懸念が浮かぶ。

―人を、恐れている…?―

 知らず、視線が、犬神の指先に、移る。
 妖の仕業にしては生ぬるく、自分で負った怪我にしては不自然で。
 思い出すのは、あの日の事。
 細い手足に残る痣は、まるで、そう、飛礫のそれのようではないか。
 最初に抱いていた恐れは、どうやら、外れてはくれなかったらしい。
 
「犬神、もう大丈夫だよ…大丈夫…」

 何度も何度も、言い聞かせてやりながら。
 大師はきつく、抱きしめる腕に力を込めた―。