「大師様…っ!」

 どこか、悲痛さを帯びた悲鳴に、大師は振り向かされた。
 腰に当たる、軽い衝撃。
 思わず、よろけそうになり、足元に敷き詰められた玉砂利が、耳障りな音を立てた。
 ふわり、白檀が香る。

「犬神…?」

 ぎゅうと、袈裟を握る手は、小刻みに震えていて。
 埋めた顔は、見えないけれど、微かに聞こえるのは、嗚咽。
 
「悪かったね…」

 しがみついたままの幼子を、抱上げ、そっと、背を撫でてやる。
 寝てる間にと、所用に立ったのが悪かったらしい。
 それはひどく、犬神の不安を煽ったようで。
 それでも。
 まるで何かに怯えるように、大師の首に手を回し、ぎゅっと縋りつく様は、少し異様だった。

「犬神…?」

 余程、慌ててきたのか。
 裸足の足は土に汚れ、所々擦り切れ、血が滲んでいた。
 やはり、寂しさから来る不安にしては、度が過ぎているように、思う。

「何をそんなに怯えているんだい?」

 そっと、訊ねれば、ようやっと顔を上げた犬神が、しゃくりあげる狭間から、ぽつり、ぽつり、言葉を零す。

「会えなく…なるかと…もう…会えなく…」

 言って、己の言葉に余計に感情が高ぶったのか、また、顔を埋め泣き出してしまう。
 そこから先は、もう、何を聞いても無駄だと、大師は分かっていた。
 それでも、それが何故かは、今は未だ分からないけれど。
 ほんの僅かな間の不在でも、犬神の心を、こんなにもかき乱し、幼い心は追い詰められることは、分かった。
 
「そうか…ごめんよ、もう大丈夫だ。…私はずっと、犬神の傍にいるからね」

 宥め、安心させるように、震える背を、撫でてやる。
 やがて、泣き疲れたのか、嗚咽は寝息に変わっていた。




 それから毎日。
 全ての務めを、大師は断った。
 部屋に結界を張り、他人の目から、犬神を守った。
 犬神が落ち着くまでは、傍にいてやろうと。
 夜毎怯え、涙を流すなら、何度でも宥めてやった。
 不安に震えるなら、傍にいると、分からせてやる為に、抱上げ、その小さな頭を、撫でてやった。
 やがて。
 怯え、涙を流す夜は、日ごとに減っていった。
 少しずつ、物も食べるようになった。
 指先の晒しも、もう、必要なくなった。
 何より、屈託なく、笑う日が増えた―。
 それは、ひどく、大師を安心させた。

「お早うございます」
「お、おはよう」

 屈託のない笑顔に、少しはにかむ様に、犬神が笑う。
 最初は、お互いぎこちなかったけれど。
 膳を運んでくれる小坊主とも、少しずつ打ち解けてきた様子が見て取れて、大師は嬉しげに目を細めた。
 その目の奥、滲む色は、ひどく優しい。
 この分なら、人の目に怯えることがなくなるのも、近い。
 少しずつ、心の平穏を取り戻していく犬神に、大師はほっと安堵した。

「犬神、今日は少し、外に出てみようか」
「外に…?」

 顔を上げた犬神の目に、嬉しげな色が、滲む。
 期待に満ちたそれは、幼子特有のもの。
 年相応の眼差しを受け、大師の目元が、和む。
 開け放たれた蔀戸から差し込む日差しは、柔らかく暖かい。
 ふんわりと、吹き込む風に、花の香が優しかった。

「下の桜はもう散ってしまったがね。…ここの桜は遅いからまだ…」

 言いかけた、その目の前を、ひらり、一羽の蝶が、舞った。
 蔀戸から入り込んできたのか、迷うような動きを見せたそれは、二人の間で揺れる。
 黒い羽が、犬神の鼻先を、掠めた。
 その、幼い目が、大きく見開かれる。
 くるり、ふわり。
 小さな黒い影は、やがて、風の流れでも見つけたのか、開け放った妻戸から、外へと向かう。

「待って…っ!」

 不意に、立ち上がった犬神が、その後を追う。
 転び出る様に出た簀子の上、尚も欄干を飛び越え、追おうとするのに、大師は慌てて、その小さな身体を抱きとめた。

「待って…!待って…っ」

 必死に、伸ばした指先を、黒い羽が、掠める。
 くるり、ゆらり。
 遠ざかるそれに、腕の中の犬神が、激しく身を捩った。
 
「犬神っ!危ないから…」
「離して下さい…っ行ってしまう…桃が行ってしまいます…っ」

 その目に映るのは、決して、幼子が戯れに追うそれではなくて。
 いっそ悲壮な程に叫ぶのに、大師は怪訝そうに眉根を寄せる。
 口走った名は、聞いたことが無いそれだった。
 
「犬神…?あれはただの蝶だよ?」
「違います…っ会いに、会いに来てくれたのです…」

 激しく首を振り、尚も逃れようと、身を捩る。
 やがて、二人の視界から、黒い影は風の向こうに姿を消した。
 
「あぁ…」

 不意に、犬神から力が抜ける。
 そのまま、くず折れるように座り込んでしまう。
 ぼんやりと、蝶の消えた虚空を見つめる瞳から、ぼろり、涙が零れた。
 そこに映るのは、深い哀しみと、絶望。
 もう、気付かぬふりは、出来なかった。

「犬神…」

 呼べば、見上げてくる、力の無い視線。
 そっと、傍らに膝を突き、その小さな肩に、手を掛ける。
 幼い双眸を見つめ、大師はゆっくりと、口を開いた。

「何があったか、話してくれるね…?」

 問いかけに、細い首が小さく一度、縦に振られた―。