ぽつり、ぽつり、話されるそれは、とても長く、時々途切れ、話は戻ったり、進んだり。
 それでも、大師は必要な時には促してやり、必要なときは、黙って犬神の手を握ってやり、ひたすらに、耳を傾けた。
 それは、とても哀しい記憶。
 犬神にとっては。
 
「それで…桃は…」

 震える声は、少女の死を告げた。
 大師はそっと、犬神を抱き寄せる。
 縋り付いて来る背を、撫でてやる。
 嗚咽が、きつく噛み締めた唇を、震わせていた。
 それでも尚、犬神は話し続ける。
 己の記憶を、少女の事を。
 
「そう…その子達は、いい子だね。…そして、幸せだ」

 ようやっと、全てを話し終わった後。
 零されたのは、ひどく優しい言葉。
 泣き濡れた目で、見上げてくるから。
 大師は柔く微笑して、そっとその頭を撫でてやった。

「だってそうだろう?…その子達は悪い子だったのかい?」
「違います…っ!」

 すぐさま、飛んで来る否定の言葉に、大師の眼が、微笑う。

「幸せだと、思わない?」
「…だって…」

 幼い眼が、再び悲しみに塗りつぶされて、俯く。
 脳裏に浮かぶのは、死の光景か、昏い見世か。
 それとも、冷たく痛い、人々の視線か。
 そのどれをとっても、幸福とは掛け離れていて。
 大師はもう一度、くしゃり、幼子の頭を、撫でてやる。

「幸せさ…。こんなにも、思ってくれる者がいる。何より…」

 犬神の顔を、覗きこむ。
 きゅっと、その小さな手を、握ってやる。

「微笑って、いたんだろう?」

 はっと、見開かれる、漆黒の瞳。

「桃は、微笑っていたんだろう?」

 それはすぐに、溢れ出した涙に、固く閉ざされたけれど。
 今はもう、その涙の意味は、変わりつつあって。

「それは、幸せだったと、言うことじゃあないのかな?」

 こくり、小さな頭が、縦に揺れる。
 その動きに合わせて、ぽたり、落ちた雫が、大師の袈裟を、濡らした。

「ねぇ犬神」

 その小さな身体を、抱上げる。
 同じ視線になった、幼い瞳に、語る。

「死は、とても哀しい別れだ。…その者の死を、哀しむことは、決して悪いことじゃあない。それだけ、その者が、大切だと、言うことだからね」

 柔く、春の風が、二人の頬を撫で、過ぎて行く。
 それは、ひどく優しい。

「だけど、その者の死のみに、捕らわれることも、無い」

 その声音は、ひどく優しい。
 けれど、強い響きを、持っていて。
 犬神の小さな手が、ぎゅっと、大師の袈裟を握った。

「本当に、お前が覚えておかなくてはいけないのは、その者への想い、その者と過ごした日々、生きていたという、その事実じゃあ、ないのかい?」

 優しい、けれど、強い光を宿した眼が、犬神の眼を、覗き込む。
 逸らされることの無いそれに、犬神の眼から、ぼろり、涙が零れた。

「…はい…」

 小さく、頷く、その眼は、もう、悲しみや、絶望のみに、捕らわれてはいなくて。
 確かに、漆黒の瞳の奥底、滲む強い光に、大師は優しい微笑を向ける。

「だから…」

 そっと、その頭を、抱き寄せてやる。

「たくさんたくさん泣いて、たくさんたくさん、私に教えておくれ。…桃のことを」
「はい…っ」

 応える頷きは、強く。
 ぎゅっと、縋りつく犬神を、強く抱きしめてやって。
 零れる涙も、何もかもを、受け止めてやる。
 その小さな指先には、小さな小さな、桜色の爪が、揃い始めていた―。




「そう…その子達は、いい子だね。…そして、幸せだ」

 言われ、犬神は思わず、顔を上げた。
 幸せ、だったのだろうかと、疑問符が浮かぶ。
 その思いを、見抜かれたのか、柔らかい微笑と共に、くしゃり、頭を撫でられる。

「だってそうだろう?…その子達は悪い子だったのかい?」
「違います…っ!」

 そんなはずが無い。
 桃は、とてもとても、優しい少女だった。 
 誰より優しい、少女だった。
  
「幸せだと、思わない?」
「…だって…」

 言い淀む、脳裏に浮かぶのは、昏い見世。
 苦しげな呼吸音に、激しい咳。
 握った手の、抱上げた身体の、どんなに軽かったことだろう。
 冷たく、人々の視線に、投げつけられる飛礫の痛み。
 真っ赤に染まった、二人の肢体。
 そして、命を失った身体の冷たさ―。
 思い出すそれは、どれも哀しく、辛い。
 幸せ、だったのか。
 湧き上がる疑問符に、また、視界が滲む。
 ぎゅっと、噛み締めた唇かが、嗚咽に震えた。
 大師の、大きな手が、また、くしゃり、撫でてくれる。
 それは、とても優しくて。

「幸せさ…。こんなにも、思ってくれる者がいる。何より…」

 覗き込まれ、きゅっと、己のそれを握る手が、温かい。

「微笑って、いたんだろう?」

 その言葉に、はっとする。
 
「桃は、微笑っていたんだろう?」

 そう、確かに、微笑っていた。
 今も、耳に蘇る、最期の声。
 残る力を全て注いで、己に告げられた言葉は、ひどく優しい、感謝の言葉。
 そして、その瞳は、誰より優しく、微笑っていて。
 それは、ひどく愛らしく、まるで桃の花がほころぶ様な、笑顔。
 ひどく、嬉しそうで…。

―幸福、そうだった…―

 溢れ出した涙に、固く、両の目を閉ざす。
 瞼の裏側、向けられるのは、ひどく愛らしく、まるで桃の花がほころぶ様な、笑顔。
 ひどく、嬉しそうで、幸福そうで。
 哀しいまでに、透き通った笑顔。
 犬神に向けられたそれは、唯一つの、真実を教えてくれて。
 その真実に、溢れ出す涙は、絶望も、昏い哀しみもなくて。

「それは、幸せだったと、言うことじゃあないのかな?」

 優しい問いかけに、こくり、頷く。
 幸せ、だったのだ。
 桃は、小鳥は、幸せだったのだ。

「ねぇ犬神」

 ふわり、抱上げられる。
 同じ目線となった、大師の眼が、覗き込んで来る。

「死は、とても哀しい別れだ。…その者の死を、哀しむことは、決して悪いことじゃあない。それだけ、その者が、大切だと、言うことだからね」

 柔く、春の風が、二人の頬を撫で、過ぎて行く。
 それは、ひどく優しい。
 犬神はふと、己の頬を撫でた、桃の手を、思い出した。
 それは、ひどく優しい。

「だけど、その者の死のみに、捕らわれることも、無い」

 思わず、大師の袈裟を、握っていた。
 その手指には、つい先日まで、晒しが巻かれていて。
 眠ることに怯え、生きることを厭っていた。
 桃が、大切な者を失ったのに、生きている己が、疎ましかったから。
 大師の元へ来て、少しずつ、傷は癒えていったけれど。
 一つ、傷が消える度、一つ、笑う度、言いようの無い罪悪感に捕らわれた。
 桃は死んでしまったのに、もう、笑うことはできないのに。
 己が、笑うのは、幸せになるのは、とても、赦されないような気がして。

「本当に、お前が覚えておかなくてはいけないのは、その者への想い、その者と過ごした日々、生きていたという、その事実じゃあ、ないのかい?」

 優しい、けれど、強い光を宿した眼が、犬神の眼を、覗き込む。
 逸らされることの無いそれに、犬神の眼から、ぼろり、涙が零れた。
 そう、桃は言った。
 泣かないで、と。
 ありがとう、と。
 桃は誰より優しいから。
 桃は、きっと、今の犬神を、望まない。
 思い出すのは、向けられた笑顔。
 それが、何よりの真実で。

「…はい…」

 小さく、頷く。
 胸に澱む、昏い哀しみと絶望が、薄れていく。
 代わりに宿るのは、ひどく優しい、温かな感情。
 桃が、与えてくれた、大師が、気付かせてくれた、感情。

「だから…」

 そっと、抱き寄せられる。
 鼻腔を掠める、白檀の香りが、優しい。

「たくさんたくさん泣いて、たくさんたくさん、私に教えておくれ。…桃のことを」
「はい…っ」

 強く、頷く。
 ただ純粋に、友の為に泣き、残された思いを、語ろうと思う。
 忘れぬよう、胸に刻もうと、思う。
 それはとても愛しく、温かい記憶だから。
 そしてその全てをきっと、大師は受け止めてくれるから。
 そして、強くなろうと思う。
 誰より強く、愛しい者を護れるほどに―。

 

 二人の頭上の遙か彼。
 青い光を宿した蝶が、見届けた様に、くるり、舞う。
 それは、ひどく嬉しそうな、幸福そうな、舞い。
 そしてそのまま、気付かれることなく、ひどく優しく、春の空に溶け消えた―。