目の前を、綿帽子がふわり、と横切る。
 部屋の中から飛んできたそれに、何故かと、視線を下げれば、蒲公英の綿毛を息の限りに飛ばしあう、鳴家たち。
 見れば、舞い上がることの出来なかった綿毛が、畳や鴨居に引っかかっては、微かな風に揺れている。
 
「こら、部屋の中で綿毛を飛ばす奴があるかい。散らかすんじゃないよ」

 佐助の言葉に、鳴家たちは一瞬、顔を見合わせ、慌てて外へ掛けて行く。

「あっこら、片付けて行きな!」
 
 怒鳴る。
 が、今更帰って来て片付けるものなど、いるわけがなかった。
 皆もう、空へと舞い飛ばす綿毛に夢中。
 呆れたように溜息を吐けば、部屋の中から忍び笑いが聞こえてくる。

「若だんな。あんまりあいつらを甘やかしちゃあ駄目ですよ」
「まぁまぁいいじゃないか。綿毛ぐらい」
  
 そう言って笑う一太郎に、佐助はただ、苦笑を返す。
 ふと、その手に持たれた小さな花に、視線が止まる。

「蒲公英ですか」
「うん。鳴家たちが取ってきてくれてね」

 言いながら、手の中のそれを、水差しでは少し、大きすぎるねと、湯飲みに生ける一太郎。
 小さな黄色い花は、活けられるというより、ほとんど水面に浮かぶ、水中花の様にして、白い湯飲みの中、揺れる。
 それを見る二人の目が、知らず、和んだ。

「懐かしいねぇ…」

 一太郎の呟きに、一瞬、訳がわからず、小首を傾げる。

「蒲公英」
 
 その言葉に、佐助にもようやっと、記憶の糸が繋がった。
 
「懐かしいですね」

 同じ言葉を返すと、一太郎が、照れたように笑う。
 二人の記憶の糸はゆっくりと、同じ道を辿り始めた―。


 それは、今日と同じような、良く晴れたうららかな小春日和。
 場所はそう確か、近くのお社の境内ではなかったか。
 調子のいい一太郎にせがまれ、佐助は、近所の子らとの遊びに、付き合っていた。

「坊ちゃん、あまり無理をしてはいけませんよ。咳が出ます」
「大丈夫だよぅ」

 言いながら、手に握り締めるのは、白く、ふわりと丸い、蒲公英の綿毛。

「一息で飛ばせたら勝ちだからな」

 栄吉の言葉に、皆が頷く。
 一太郎も、目を輝かせて、頷いた。

―大丈夫かね―

 同じように手渡された、綿毛を握りながら、けれど視線は、傍らの一太郎のまま。
 
「せーのっ」

 栄吉の掛け声に、皆がいっせいに息を吹く。
 ふわりと、一面に舞う、白い綿。
 体良く吹いた風に乗り、それは高く、空へと昇る。
 歓声。
 皆、空を見上げ、小さな綿毛の行方を、見守った。
 そして、ちいさなちいさなそれは、すぐに見えなくなり、消える。
 子らの視線が、自然、己の手の中に残った、茎に戻った。

「やったぁっ!全部飛んだっ」
「俺ちょっとのこっちゃった」
 
 そんな声が、口々に上がる。
 一太郎は…

「わ…我は半分も飛ばせてない…」

 ほとんど泣きそうな呟きに、思わず、漏れてしまう、苦笑。

「大丈夫ですよ。大きくなればきっと一息でできるようになります」

 小さな頭に、そっと、己の小さな手を載せ、慰める。
 一太郎は俯いたまま、小さくこくりと頷いた。
 頷いてはいるが、納得できるものではないのだろうし、悔しさが消えているわけでもない。
 それを知っている佐助は、さて、どうやって機嫌を取ろうかと、頭を悩ませる。
 その時、背中から声が掛かった。

「佐助さん」

 振り返る。
 一太郎と話すときよりも更に、視線を下げれば、お春に手を引かれた幼子が、じっとこちらを見上げていた。
 
「どうしたんだい?」

 問いかけると、無言で差し出されたのは黄色い花輪。
 蒲公英の花で編まれたそれを、差し出してくる幼女の頬は、心持ち、赤い。
 寄り添うように立っていたお春が、悪戯を仕掛けたように、笑う。

「この子ね。佐助さんのことがすきなんだって。お兄ちゃんにほしいんだって」

 お春の言葉に、いよいよ赤くなって、幼女は小さく、その細い首を縦に振る。

「おやまぁ…」

 黄色い、愛らしい花輪を受け取りながら、佐助は目を見開く。
 それに声を上げたのは、傍らの一太郎だった。

「佐助は我の兄やだもの…っあ…あげないっ!」

 お春たちと、佐助との間に割って入り、ぎゅっと、佐助の袂を握り締める。

「ねぇ佐助。そうだよね。佐助は何処にも行かないよねっ?」

 不安の色がありありと浮かんだその声に、見上げてくる、既に潤み始めた目に、佐助は大きく頷き、笑う。

「そうですよ坊ちゃん。佐助も仁吉も、坊ちゃんのお傍に、ずぅっとずぅっと、居りますよ」

 安心させるように笑いかければ、ほっと安堵した様に息を吐く一太郎。
 己の、大事な兄やの袂は、まだしっかりと握ったまま、幼女に向き直る。

「だから、だめ」

 言い切るその目は、幼いなりに、強い意思を湛えていて。
 その視線を受けた幼女は、一瞬、泣きそうな顔になったけれど、ぐっと堪えて一太郎を睨み付けた。

「いてっ」

 無言で、一太郎に団栗の飛礫を一つ、投げつけると、駆け出していってしまう。

「あっ待ってよぅ」
 
 それを慌てて、お春が追う。
 二人の小さな影が、御神木の陰に消える。
 
「坊ちゃん、大丈夫ですかっ?」

 まさかあんな小さな子を怒鳴る訳にもいかないので、佐助は心配げに、一太郎の顔を覗き込む。
 目が合うと、一太郎はにっと、嬉しそうに笑った。

「大丈夫」

 その、あまりにも嬉しそうな顔に、つられ、佐助からも笑みが零れる。
 赤い夕日が、二人の影を、濃く長く、引き伸ばす。
 夕日に照らされた二つの笑い顔は、どちらも赤い。
 
「そろそろ帰ろうか」

 栄吉の言葉に、皆が口々に、別れの挨拶を告げ、散り散り、家路に着く。
 
「帰りましょうか」
「うん」

 差し出された手を握り、一太郎も、家路を急ぐ。
 己の大事な大事な兄やの手と、繋ぐその手は、いつもよりほんの少し、力が篭っていた―。
 




「あの後、お春ちゃんがご機嫌取るのに苦労したって、後で怒られたっけ」
 
 相変わらず視線は湯飲みの中の蒲公英のまま、一太郎がおかしそうに笑う。
 その横にはもう、あの日の幼い面影は無い。

「蒲公英の綿毛も、一息で飛ばせるようになったしね」

 その言葉に、佐助からも、笑いが零れた。

「若だんな」
「ん?」

 振り返ったその顔に、佐助は笑い顔のまま、口を開く。

「佐助も仁吉も、坊ちゃんのお傍に、ずぅっとずぅっと、居りますよ」

 あの日と同じ言葉に、一太郎が、照れたように、けれど、嬉しそうに、声を立てて笑った。

 夕日に染まるその横顔は、あの日と同じように、赤かった。