細い目が一層、細められる。
 ごろり、腹を天井に向けた守狐に、屏風のぞきが呆れたように声を立てた。

「えらく寛ぐじゃないか」
「若だんなは撫でるのが巧いね」

 言いながら、一太郎の白く細い指先に、胸元の柔らかな毛並みを擽られ、守狐が心地よさげに喉を逸らす。
 振られた一太郎はただ、苦笑した。

「おしろで慣れてるのかしら」

 その言葉に、化け猫風情と並べられたのが些か気に食わないのか、守狐の真白い耳が、ぴくりと動く。
 けれど、心地よい指先から逃れる気はないらしく、結局、一太郎の膝に身を預けたまま落ち着いた。

「指の動きが優しいんだよ。若だんなは」

 常とあまり変わらぬからよく分からぬが、恐らく目を閉じたまま零された守狐の言葉に、一太郎が一瞬、目を大きく見開いた後、少し照れた様に、微笑った。

「やあ、それは嬉しいね。…ならいつか犬猫でも飼った時には、嫌われずに済みそうだ」
「おや若だんな。犬猫なんざ欲しいのかい?」

 初耳だと、屏風のぞきが、行儀悪く立てた片膝の上、小首を傾げる。
 そう言えば先に、おしろがとこぞから連れてきた仔猫を、熱心に見ていたなと思い出す。
 
「犬ならずっと以前に飼ってただろう。また強請って飼って貰えば良いじゃあないか」

 猫は家の中で毛を飛ばすし、何より己の大事な本体で爪でも研がれてはかなわないがと言えば、一太郎が小さく、苦笑を零す。

「そんな無理は言えないよ。…ただでさえ私はこのうちに迷惑を掛けてるんだ」
「…………」

 屏風のぞきが一等苦手な、諦めたような微笑を浮かべる一太郎に、何も言えずに押し黙る。
 この子はうんと小さな頃から、この笑い顔を持っている。
 きゅうと、扇子を握る指先に、力が籠もった。

「ねぇだってそうだろう?…私が寝付いたとき、だれがその仔の世話をするんだい?…ただでさえ皆が忙しい中、できる手代の手を二つも奪うんだもの」

 だから、無理は言えぬと微笑う一太郎に。物分かりよく、諦めた顔で微笑う一太郎に、屏風のぞきはじっと、己の爪先を睨みつける。
 
「にゃあ」

 不意に、聞こえた耳慣れぬ鳴き声に、一太郎が驚いた様に、目を見開く。

「屏風のぞき…?」

 俯いた顔を覗き込むように問い掛ければ、唐突に顔を上げた屏風のぞきと、近すぎる距離で視線がぶつかり、思わず、背を逸らす。
 
「にゃあお」
 
 まるで猫の様に。
 大きく開いた足の間に片手を着いて。
 空いた、緩く握り込んだ手で、招いてみせる。
  
「何だい?お前が猫になってくれるのかい?」

 笑って言えば、屏風のぞきは応えずに、ただ「にゃあ」と鳴くだけ。
 その瞳には、今まで見せたことのない、妖しい色を浮かべていて。
 一太郎は僅かに、眉根を寄せる。

「屏風のぞき?」

 手を伸ばせば、ふいとかわされ、戸惑う。
 
「にゃあお」

 感情の読み取れぬ眼で、じっと己を見つめて。
 ただ、猫の声を真似る屏風のぞきの、意図が読めずに、常とは違うその表情に、よぎるのは不安。
 まるで目の前にいるのは、見知らぬ者のような気さえ、する。

「ねぇ、お前は何がしたいんだい?」
「にゃあ」
「『にゃあ』じゃあ分からないよ」

 真逆本当に化猫に取り憑かれた訳でもなかろうに。
 じれたように言えば、不意に、屏風のぞきの眼が、いつもの表情で、笑った。

「ほうらね。犬猫なんざこんなもんだよ」

 その声は、いつもの屏風のぞきで。
 思わず、安堵の息を吐きながら、怪訝に首を傾げる。

「どういうことだい?」
「にゃあだの、わんだのしか言わない犬猫より、話のできるあたしらと居た方が楽しいだろうってことさ」

 笑う屏風のぞきに、一太郎の目が、大きく見開かれたあと、笑った。

「そうだねぇ。犬猫と囲碁は、打てないもの、ね」
「あぁそうさ」

 どこか、安堵感を滲ませた表情で、屏風のぞきは頷いてみせる。
 諦める。なんて哀しい選択をさせるのではなくて。
 それをもっとずっと楽しい、良いことの前に霞ませてしまいたかった。
 
「さて、社に用があるんだった」

 唐突に、いつの間にか一太郎の膝から降りていた守狐が、立ち上がる。
 一つ、一太郎に暇を告げて。
 部屋を出て行く白い影を、すぐさま市松模様が追い掛けた。


「……下手だと笑うかい?」

 人気のない庭の片隅。
 ふうわりと己の肩に飛び乗ってくる守狐を抱き上げてやりながら言えば、肩口で微かに、笑う気配が空気を揺らす。

「いや?…あの子は良い子だね」
「良い子すぎるよ…時々胸が苦しくなる」

 珍しく零された弱い声に、守狐の真白い尾が、励ますように、屏風のぞきの腕を撫でる。

「ついててやりなよ。お前たちと居るときのあの子は楽しそうだ」
「…うん」

 人気のない庭の片隅。
 降り注ぐ日差しだけが、ひどく優しかった。