きゅわきゅわぎゃいぎゃい…。
 耳に届いた微かな声に、顔を上げれば、暗がりから覗く小さな影が三つ四つ五つ。
 商いの最中だからと、素知らぬふりをしてみても、何かを訴えるような視線は背中に張り付いたまま。
 
「……」

 溜息。
 仕方なしに番頭に適当に言い繕って、店表を離れ、人気の無い暗がりへ。
 今だ解かれることの無い積荷に囲まれながら、適当な行李に腰を下ろす。
 埃臭い匂いが立ち込める此処は、あまり好きではないけれど、仕方ない。
 もう一度溜息を吐いて、口を開く。

「で?どうしたって言うんだい」

 途端、そこかしこから転がり出てきた鳴家たちに囲まれる。
 
「白沢殿が酷いのです」
「我らをいじめるのです」
「我らはただ若だんなを心配しただけなのに」
「我らはみな静かにしていました」
「我らは悪くありません」

 きゅいぎゅいぎゃわぎゃわ。
 口々に飛び出してくる非難の声に、佐助は眉間に皺を寄せた。
 皆が一斉に訴えては、何を言っているのか分からない。

「順を追って説明しておくれな」

 そう言えばまた皆一斉に口を開こうとするので、一匹の鳴家を指差して、言葉を促す。
 
「我らは若だんなを心配してそっと見舞いに行ったのです」

 その時の事を思い出したのか、じわり、鳴家の恐ろしげな目元に涙が滲む。
 埃臭い薄闇で、微かに光るそれに、仕方なく宥めてやれば、その隣の者が代わりにと言葉を継ぐ。

「我らは若だんなの病に障るといけないからと、皆静かにしていました」
―なるほどね。…それが本当なら鳴家にしては上出来だ―

 そしてそれは本当だろうと、ぼんやりと思う。
 ここ最近、一太郎はずっと寝付いたままだ。
 熱が中々下がらず、もう随分日も経つのに、中々回復の兆しを見せてはくれない。
 その間、いつも騒がしい鳴家たちが、ひっそりと物陰から心配げな眼差しを送っていたのを、佐助は知っている。
 
「仁吉がどうとか言ってたね。仁吉に叱られでもしたのかい?」

 訊けば、一斉に皆が顔を上げた。
 佐助を見上げる、涙の滲む非難の視線。

「白沢殿が…白沢殿が酷いのです…っ!」
「我らは静かにしていたのに…っ」

 滲んだ涙が、ぽろり、零れれば、後はもう佐助が宥める間もなく、皆泣き出してしまう。
 行李の上にぽたりぽたりと出来る小さな染み。
 しわ枯れた嗚咽に、佐助は困ったように眉根を寄せた。

「泣いてちゃ分からないだろう。仁吉が何をしたんだい?」

 その言葉に、どうにかこうにか嗚咽を噛み殺して、鳴家たちは懸命に訴える。 

「…っ看病していた白沢殿は、うるさいといって我らを飛ばしました」
「我は柱に腕をぶつけました」
「我は頭をぶつけました」
「我は足が痛いです」
「我らは皆静かにしていたのに…っ!」

 最後の言葉だけは、皆揃って同じだった。
 つまり、自分達に非は無いと言う。
 そしてこれもまた本当だろうと、佐助は思う。
 各々怪我をした箇所を小さな指で示しては訴える鳴家たちに、日頃そうしてやっている一太郎を真似て、頭を一つ、撫でてやり、ついさっき、客から貰った菓子差し出す。

「仁吉も気が立ってるんだよ。今日のところはこれで勘弁しとくれ」

 大好きな甘味を手にすれば、途端、皆の顔が綻ぶ。
 がりがりと菓子を齧りながら、それでも、理不尽な痛みは忘れられないようで。

「犬神殿、何とかしてください」

 その一言に、思わず漏れる苦笑。
 
「ああ分かった。善処するよ」

 頷けば、やはり、機嫌は直っていたのか、鳴家たちはさっと暗がりにその姿を消した。
 後に残ったのは、行李にできた小さな染みと、ぱらぱらと零れ落ちた菓子の屑だけ。
 それを適当に払うと、佐助は店表に戻るべく腰を上げた。
 脳裏に浮かぶ、今朝方見かけた、その眉間深くに皺を刻んだ相方。
 自然、口元に浮かぶ、微な苦笑。
 
「さて…どうしたもんかね…」

 零れ落ちた小さな呟きは、誰に拾われること無く、薄闇に溶けて消えた―。



「佐助さん、ちょっと…」

 不意に呼び止められ、振り返れば、困ったように己を見上げる、薬種問屋の番頭。
 薬種問屋の番頭が、廻船問屋の方に顔を出すのは珍しい。
 何かあったのかと、内心小首を傾げつつ、促されるまま、奥の間へと向かう。
 
「仁吉さんのことなんだけどね…」

 番頭の口から出た、今日二度目の仁吉の名に、佐助の中で大方の予想がついてしまう。

「仁吉が何か…?」

 それでも、聞かぬ訳にはいかなくて。
 仕方なく促せば、ひどく言いにくそうに、番頭が口を開く。

「いや、仁吉さんも大変なのはよぅく分かっているんだよ?若だんなの調子が悪いんだもの。そりゃあ気も立つのも判る」
 
 うんうんと、己の言葉に頷く番頭に、曖昧に笑う。
 ああやっぱりと、予想が確信に、変わる。

「ただねぇ…なんていうかその…ああもぴりぴりとされるとね…お客さんも皆怖がっちまって…」

 「四度登の小僧まで、訳の無いことで怒鳴られて、影で泣いているんだよ」と続く言葉に、佐助は思わず、その眉間に皺を寄せてしまった。

「佐助さんの方から巧く言って貰えたら嬉しいんだけどねぇ…」

 さすがに此方は、菓子を渡して誤魔化す訳にも行かぬ。
 苦笑交じりの番頭の言葉に、不承不承、頷かざる得ない。
 薬種のことでは仁吉に頭が上がらない番頭では、あまり強くは言えないのだろう。
 
「…わかりました…」
「そうかい?いやぁ良かった良かった。助かるよ」

 途端、心の底からの安堵の息を吐いて、笑う番頭に、微苦笑で返す。
 また、脳裏に今朝の、苛ついた仁吉の横顔が浮かぶ。
「それじゃあ頼んだよ」と、薬種問屋の方へ戻る番頭を見送った佐助の、小さく漏らされた溜息は、やはり、誰に届くことなく、部屋の空気に溶けて消えた―。

 
   


 鼻腔を突く、薬湯の匂い。
 熱に浮かされ、苦しげな呼吸を繰り返す一太郎の、その乾いた唇に、海綿に沁み込ませたそれを注いでは、少しでも飲んでくれることを願う。
 咽ぬ様にと細心の注意を払う仁吉の、その眉間に刻まれた皺は、深い。
 薬が思うように効かぬ。
 熱が下がらぬ。
 大事の若だんなが苦しんでいるのに。
 苛立ちは、消えることなく渦巻いて。

「仁吉…」

 己を呼ぶ声は、確かに聞こえたけれど、顔を上げぬまま、もう一度海綿を湯のみに浸す。
 その肩に、手が触れた。

「仁吉、交代しよう」
「いや…いいよ」

 言いながら、指先に力を込めれば、絞られた海綿から、薬湯は一太郎の口中へと零れ伝う。
 途端、小さく咽た一太郎に、慌てて、手拭でその口元を拭ってやる。
 汚れた手拭に、思わず、舌打ちが零れた。

「仁吉」

 強く、名前を呼ばれ、ようやっと顔を上げる。
 困ったように眉根を寄せて、己を見つめる佐助と、目が合う。

「いいって言ってるだろう。薬種問屋の方は暇らしいから」

 答える声に、どこか棘が滲むのが止められない。
 そんな自分自身に、また苛立つ。
 今だ己を見つめる佐助から無理矢理視線を逸らし、一太郎へと移す。
 額の手拭を変えねばと、手を伸ばした時。

「大丈夫だから」

 唐突なその言葉に、思わず手を止め、顔を上げる。

「若だんななら、きっと大丈夫だから。…あんまり自分を追い詰めるんじゃないよ」

 向けられたそれは、ひどく優しげな微笑。
 一瞬、意味が分からず、呆けた様な表情を晒してしまったけれど、己の裡を見透かされた事実に気付き、かっと目元が熱くなる。

「誰が…っふざけるんじゃないよ」

 詰っても、返って来るのは困ったような微苦笑で。
 それが更に、苛立ちを煽る。
 まるで己一人、空回っているかのようで。
 ばしゃり、手拭を浸した手桶から、派手に水が飛ぶ。
 畳に、僅か、染みができる。
 
「若だんなが大変だってのに…随分余裕みたいだね」

 お前は心配じゃないのか。
 言外に込める、苛立ち。
 絞ったそれを、再び一太郎の額に戻しながら毒づけば、やはり、背中で困ったように笑う気配がした。

「水を替えてくるよ」

 言いながら、立ち上がる佐助に、頷きもせずただ、一太郎の口元、薬を運ぶ。

「……」

 再び、一人になった部屋の中、募る苛立ちだけが、仁吉を苛んだ―。





 じっと、行灯の灯が、微か、音を立てる。
 夜が更けても未だ、一太郎の熱は、下がる気配を見せてはくれない。
 張り詰めた空気の部屋の中、響くのは、苦しげな呼吸音のみ。

「―――っ」

 背中で響いた鈍い音と、小さな呻き声に振り返れば、額を押さえる佐助。
 ばさり、取ってきたばかりの薬の袋が佐助の手から滑り落ち、散らばる。
 目が眩んだのか、そのままがくりと膝をつく相方に、慌て駆け寄り、支えた。
  
「何やってんだい」
 
 鴨居に頭をぶつけるのは、長身の佐助のこと、今までにも何度かあったけれど、こんな風に屑折れるのは初めてで。
 
「すまない…」

 言いながら、返してくる苦笑は力無い。
 その笑みに、膝を突いたのはぶつけた所為ばかりではないと、はたと気づく。
 いつもは鋭い光を宿した目元、やつれて見えるのは気のせいではないだろう。
 相変わらず、苦しげな呼吸を繰り返す一太郎を、心配げに覗き込む横顔は、思いつめたように深く、眉間に皺を刻んでいて。
 ふっと、昼間の己の言葉を思い出す。
 この姿の何処に、余裕があるというのか。
 
―それなのに…―

 己にまで、その心を割いた佐助。
 それに対して、己の、幼いともいえる余裕の無さに、仁吉は思わず、その両の手指を握り込んだ。
 
「すまなかった…」
「え…?」

 自然、口を吐いて出た言葉は、唐突だったのだろう、佐助が、怪訝そうに振り返る。
 その隣に並び座りながら、ぽつり、言葉を紡ぐ。

「しっかりしなきゃならない時に…こんな様晒しちまって…」

 情けない。
 零れる言葉に、隣で佐助が、ゆるく微笑する気配がした。

「気にしなさんな。…しっかり頼むよ。あたしが頼れるのはお前さんしかいないんだから」

 その言葉に顔を上げれば、自然、絡む視線。
 そう言えば、まともに視線を合わせるのもしていなかったと、ぼんやりと思う。

「大丈夫だよ」

 昼間と同じ言葉を、繰り返す佐助。
 むけられるそれは、やはり、ひどく優しい表情で。
 自然、心が凪いでいくのが分かる。
 
「あたりまえさね。…あたしがついてるんだから」

 いつもの様に、口角を上げて笑えば、佐助が声を立てて笑った。
 つられ、自分も笑う。
 随分と久しぶりなその感触に、戻るのが分かる、失われていた余裕。

「大丈夫さね…」

 呟くその言葉に、佐助が強く、頷いてくれた。
 ただ、それだけのことなのに、本当に大丈夫なような気さえしてくるのが、不思議だった。
 一太郎を見つめる仁吉のその眉間には、相変わらず深い皺が刻まれていたけれど。
 その裡からは、いつのまにか苛立ちは消えていた―。


 


 それから程なくして、一太郎は 無事回復し、二人の兄やはほっと安堵した。
 飛ばされた鳴家も、泣かされた小僧も、この報せには、ひどく嬉しそうな笑みを向けたという―。