夕暮れ時の、湿気を孕んだ、紅い空気に低く、不機嫌な音が響く。
  稲光が真黒い空を一瞬、白く染める。
   ぽつり、ぽつり。
  地面にまあるい模様が出来たかとおもった次の瞬間。
  文字通り、桶をひっくり返したかのような大雨が、茹だる様な暑さを押し流した。
 
「これで少しは涼しくなるねぇ」

  けぶる様な雨が、視界を塞ぐ。
 全ての音を押し潰して響く雨音を、更に、雷鳴が引き裂く。
 吹き込む風に、一息に冷えた空気が頬を撫でる。
 ほんの一時の通り雨。
 夏にはけして珍しくない光景。
 途絶えた客足に、不意の休息を得た奉公人たちに、和やかな空気が満ちる。
 小僧たちだけは、この後の泥掃除を思ってか、泣きそうな程眉尻を下げていた。

「…………」

  無人となった通りを見つめる仁吉の双眸はけれど、決して安穏な光を宿してはいなかった。
 視界を塞ぐ様な雨が。
 耳を聾する程の雷鳴が。
 とうの昔に置いてきたはずの記憶を、引き戻す。
 不意に形の良い唇から、零れたのは微かな苦笑。

「忘れていたと思ったんだがねぇ…」

 呟きは、雨音に掻き消され、誰の耳にも届かずに、土砂降りの空気に流される。
  こんな日は幾度も幾度も。
  文字通り数え切れぬ程にあったのに。
  不意に、本当に不意に、思い出した理由など、己にも分からない。
  ただそれは確かに、小さくけれど鋭い、痛みを仁吉の胸に呼び起こした。




  夕餉の折。
 横顔に当たる佐助の視線に気づいてはいたけれど。
  気づかぬふりをしてみれば、敢えて何かを問うて来ることは無かった。
 
「おやすみ」
「おやすみなさい若だんな」

  一太郎を寝かしつけて。
  二人揃って、部屋を辞す。
  夕方程の激しさは当然、無いけれど。
  細かな雨が、真黒い夜空から降り注いでいるのが、微かな雨音で分かる。
  お陰で今日の夜風は、随分と心地良い。
 ぺたぺたと、湿り気を帯びた廊下に、二つの足音が響く。
 何か言われるかと思ったが、結局、部屋に戻っても、佐助から何かを問われる事はなかった。
 その、無言の気遣いに、内心零すのは苦い笑い。

―だぁれも、気付いちゃいないのにねぇ…―

  佐助一人が、仁吉が纏う、常とは違う空気に勘付いた。

―全く…妙に鋭いったら…―

  それでも、話す気は、無い。
  話してどうなるものでもないことを、仁吉も、そして佐助も、よく、知りすぎるほどによく知っているから。
 だから、言わない。
  だから、聞かない。
  それでも。

「…………」

  二人、潜り込んだ一つの布団の中。
  背中から佐助を抱きすくめる、その腕に、常より強く、力が籠もるのを、止められなかった。
  不意に、その手に、佐助の、仁吉より少し体温の高い手を重ねられ、僅か、目を見開く。
  佐助の手は、ただ静かに、仁吉の手指を撫でた。
  それは、ひどく温かくて。
  反射的に指先を絡めれば、きゅっと、握り返され、知らず、指が震えた。

「大丈夫だよ」

  暗闇の中、たった一言。
  呟かれた言葉に、絡めた指先に力が籠もる。
  まるで縋り付いているようだと、頭の片隅でぼんやりと思った。
  歳月を重ねれば重ねるほど。
  忘れていく記憶もあれば、決して消える事のない記憶もある。
  そしてそれは、時には痛みを伴い、鋭い棘を、幾度も胸に突き立ててくる。
 
「…………」

  呟きには応えずに。
  仁吉は無言で、佐助の首筋に顔を埋める。
  抱きすくめる腕に、絡めた指先に、力を込める。
 まるで、腕の中の存在を確かめるように。
 まるで、縋り付くように。
  そうすれば、過去の痛みもやり過ごす事ができるから。
  降りしきる雨と、雷鳴に伴う痛みを、忘れることはできないから。
 
「好きだよ」

  小さく、呟けば、佐助が無言で、絡めた手を、握り返してくる。
  その手はやはり、ひどく温かい。
 
「佐助」

  呼びかけても、返事は無い。
  代わりに小さく、腕の中の身体が、身じろいだ。
 
「大丈夫だよ」

  例え痛みを伴っても。
 
―お前がいてくれるなら…―

  気が遠くなるほどの歳月を。
  小さな棘を抱えたままだとしても、きっと大丈夫だと、仁吉は思う。
 
「明日…」

  ぽつり、重ねた手はそのままに、佐助が零す。
 
「晴れると、良いね…」

  小さく続いた声は柔らかな笑みを含んでいるのが、空気で分かる。
 指先を辿る手は、ひどく優しい。
 先に一度だけ、話した事を覚えていたのかと、内心、仁吉は苦笑を漏らす。
 同じ痛みを、佐助は誰より知っているから。
 そこには、同情も、憐れみもないから。
 佐助の手は、誰より優しい。
 だから、信じることが、できる。
 
「晴れるよ。きっと」

  応える仁吉の口元に浮かぶのは、柔らかな笑み。
 ひどく優しい仕草で、絡めた手指は、その夜、決して解かれることはなかった―。