穏やかな春の風が、頬を撫でる。
何処から飛んできたのか、その風に乗って、桜の花びらが幾枚か、先程から舞い込んできては、人々の目を和ませていた。
「綺麗だねぇ。…あぁ、花見にでも行きたいな」
言いながら、頭上を舞う花びらを見上げる小僧に、佐助は思わず苦笑する。
仕事を覚えなければならない自分達に、そんな間は無いのと言うのに。
夢見てしまうのは幼さか、この陽気の所為か。
その両方だろうなと、一人、笑みを零す。
まだ小さな両の手に掛かる長持の角は、重い。
その反対側を持ってくれている小僧には、もっと重く感じられていることだろう。
蔵から店出しの品を取って来るように言い使ったのはつい先程。
蔵とお店はそう離れているわけではないが、子どもの身体には、辛いはずだ。
良く見ると、先程から足元が、覚束無い。
「…うわぁっ!」
唐突に響いた悲鳴。
案の定、石にでも躓いたか、小僧が体勢を崩す。
咄嗟に、怪しまれない程度に両の手に力を込めて。
長持を、落とすふりをして脇に置く。
その派手な物音が、店表から人を呼んだ。
「お前たち何やって…」
先輩格の手代が、駆け寄ってくるより早く。
その場に、鋭く、乾いた音が、響いた。
「余所見してるからだろう。佐助が怪我したらどうすんだい」
呆けたように、尻をつく小僧に、降って来る声音は、同じ年頃とは思えない程に、冷たい。
一体何処から現れたのか、尻餅をついた小僧の胸倉を、仁吉が引っ掴んだまま睨みつけていた。
その、まだ幼い手が、小僧の頬を打ったのだ。
打たれた痛みと、見下される恐怖に、幼子の目に涙が浮かぶ。
ひくり、しゃくり上げる声に、佐助は慌てて、割って入った。
「仁吉…っ何もそこまで…」
「煩い。お前もお前だよ、お店の物が傷ついたらどうすんだい」
妖である自分に、そんなことはありえないだろうにと、言いたいけれど、言える訳が無い。
春の穏やかな陽気にはそぐわない、剣呑な空気が、満ちる。
兎に角と、佐助は無理矢理に、仁吉を小僧から引き剥がす。
わあわあと声を上げて泣きながら、自分の背に隠れるのを、苦笑交じりに宥めてやった。
「ほらほら…そんなに泣くんじゃあないよ。…これからは気をつけてくれるね?」
佐助の、己と同じ程に幼い手に頭を撫でられ、優しげな声音で問いかけられて。
小僧の目からようやっと、涙が引っ込みかける。
小さな手が、佐助の袂を、ぎゅうと握って。
「ごめんよ」と、しゃくり上げる声が、切れ切れに告げた。
「たっく危なっかしいったら…」
傍で見ていた手代が、溜息混じりに何か言いかけたとき。
唐突に、佐助は突き飛ばされて、よろめいた。
「甘えてんじゃないよ」
言葉と同時。
また、仁吉に胸倉を引っ掴まれた小僧が、殴り飛ばされ、尻餅をつく。
驚いた様に、目を見開いたのは一瞬で、すぐに、火がついたように泣き出した。
「仁吉っ何やってんだっ!」
手代が、仁吉の肩を、掴む。
仁吉は慌てるでも、怯えるでもなく、じっとその顔を睨み上げた。
その、とても十やそこらの子どもとは思えない視線に、一瞬、手代がたじろぐ。
佐助は慌てて、二人の間に割って入った。
先程から、どうして自分はこんなことばかりしているのだと、考えると少し、頭が痛くなるような気がしてくる。
「すみません、うちの仁吉が…」
「お前が謝るこたぁ無いじゃないか」
さらりと、零された言葉に振り返れば、不機嫌そうに眉を顰める仁吉がいて。
思わず、その顔を怒鳴りつける。
「仁吉っ!お前なんだってこんな…」
一度目はまぁ、分かる。
けれど、二度も殴りつける必要があるとは、思えない。
視線で質せば、仁吉は相変わらず不服そうに眉を顰めながら、ぼそり、言葉を零す。
「何だってそう怒ってるんだい?…馴れ馴れしく触るからだよ」
「「は?」」
手代と、佐助からほぼ同時に、同じ疑問符が零れ落ちる。
仁吉はうんざりと溜息を吐きながら、傍で、懸命に涙を拭う小僧を顎でしゃくる。
「あいつが佐助に馴れ馴れしいからだよ」
「………」
単にそれだけのことか。
自分が、あの小僧に構ってやっているのが気に入らなかったのか。
つまり。
焼餅。
「お前ねぇ…」
今度ははっきりと、こめかみが痛む。
齢千年を超える大妖の癖に。
これでは本当に、十やそこらの子どもと変わりない。
傍で、手代が声を立てながら笑い出す。
「何だい。一番の友達を盗られて悔しかったのかい」
「可愛いところもあるじゃあないか」と、手代が仁吉の頭をかき乱す。
その手を、うっとうしそうに顔を顰めながら、仁吉は訳が分からないという様に、避ける。
それを照れと取ったのか、更に笑いながら、手代は泣いている小僧を立たせて、仁吉が脇に放り投げていた箒を、手渡す。
どうやら此処に来る前は、仁吉は何処かの掃除を、任されていたらしい。
「お前は店表を掃いてきな」
ようやっと、涙を引っ込めた小僧は、一つ頷いて、駆け出していく。
その背を見送りながら、後で謝ろうと、佐助は思う。
後に残るのは、仁吉と佐助と、放り出されたままの、長持。
穏やかな春の日差しに、木目を滲ませるそれを、手代が顎でしゃくる。
「お前たちでそれ、運んできな」
「はい。…どうも本当に、うちの仁吉がご迷惑をおかけしました」
素直に頷く佐助の、仁吉とはまた異なる、子どもらしくない口調と、何より、無意識だろうけれど、言葉の端に滲む情の深さに、手代は軽く目を見開く。
けれど、次の瞬間には声をたてて笑いながら、己も店表へを、踵を返した。
最後に、揶揄する様に一つ、言葉を残して。
「頼んだよ。御神酒徳利」
「な…っ」
「はい」
自分は思わず、言葉を詰まらせてしまったのに。
さらりと、返事を投げ返す仁吉を睨みつければ、にやり、子どもの顔に、子どもらしからぬ笑みが、乗る。
これからきっと、お店ではこれを種に、揶揄されるに違いない。
そしてそれを気にするのは、多分、己だけだ。
佐助はまた、こめかみが痛み出すのを感じた。
「さっさと持てよ」
「はいはい」
くつくつと、喉の奥で押し殺したような笑い声が気に食わない。
いっそ、全部一人で運ばせてやろうかと、思案する。
背に当たる日差しは、少し暑い。
「佐助」
「あぁ?」
自然、応える声に、棘が滲む。
顔を上げれば、一等大人達が好む顔で笑う仁吉が、そこにいて。
ふんわり。
その顔を横切った桜の花びらが、二人の間の、長持に落ちる。
そうやって笑えば、本当に、可愛らしい子どもなのにと、ぼんやりと思う。
「何だい」
「お前が一等愛しいよ」
「―――っ」
思わず、足元の小石に、躓いてしまった。
ぐらり、転びかけるのを、どうにか堪えて。
思わず、仁吉の顔を、見返してしまう。
頬が、熱いのは、春の陽気のせいだけでは、無いだろう。
「だからお前は、誰にもやらない」
「………」
可愛らしい子どもの笑顔で、告げてくることかと、思う。
これから先のことを思うと、また、頭が痛くなってくる。
もしかしたら自分は、頭痛持ちになってしまうかもしれぬと、懸念してみたりする。
「お前の所為で頭が痛いよ」
溜息混じりに零せば、仁吉が器用に、片眉を吊り上げた。
両の手に掛かる長持の角は、先程よりも、軽い。
「おや、それはいけないね。薬を煎じてやろうか」
「…いいよ…」
もう一度、溜息を吐きかけて、やめる。
一体何がどうなったのか、己のことなのに分からないけれど。
それでも。
こんな奴に、己も同じぐらい惚れているのだと思うと、そのことが一番、頭が痛かった。
穏やかな春の風が、頬を撫でる。
何処から飛んできたのか、その風に乗って、桜の花びらが幾枚か、先程から舞い込んできては、人々の目を和ませていた―。