守狐の機嫌が悪い。
 別段、何を言われたわけでも、何をされたわけでもないが。
 長い付き合いで培った勘が、屏風のぞきにそう告げる。

―はて、何かやったかしら…―

 半歩後ろを歩きながら、小首を傾げても思い当たる節は無い。
 良い天気だから。と何気ない理由で、二人、散歩に出かけたその時は、確かに機嫌は良かった筈だ。

「守狐?」
「うん?」

 応える様は、いつも通りなのだけれど。 
 声音が心なしか、堅い。

「機嫌が悪いのかい?」

 思い切り良く訪ねてみれば、一瞬、守狐の歩みが、止まる。
 狐の耳が在ったのなら、ぴくりと動いていたのだろう。

「さて。どうしてそう思うね」
「どうしてって…だって機嫌が悪そうじゃあないか」

 問い返され、怪訝に眉を顰めながら返せば、初めて、守狐の顔が振り返る。
 つられて、歩みを止めれば、ついと、伸びてきた細く白い指が、屏風のぞきの顎先を掬う。
 見上げた細い眼の奥、表情は、読めない。

「さっきの御坊…」
「ああ、寛朝かい?」

 大方、どこぞの金持ち檀家の処にでも行くのだろう。
 先に寺で見た時よりも立派な袈裟を着た寛朝が、弟子を伴っているのと、出くわした。
 春画の一件で覚えていたのか、屏風のぞきに声を掛けてきて。
 また遊びに来いだとかなんだとか。一人勝手に喋って、弟子に叱られながら行ってしまった。
 そういえば、それから、守狐の機嫌が、悪いような気がする。

「あいつは『また』と言っていたね。…先にも会った事があるのかい?」
「ああ、ほら、話したじゃないか。若だんなの為の春画を貰いにいったんだよ」

 寛朝は妖退治で高名な僧だから、守狐は気に入らないのかもしれない。

「噂ほど、恐い奴じゃあ無いんだよ。鳴家達だって、あいつの僧衣で遊んで帰ってくるくらいなんだ」
「ふうん…広徳寺までは、どうやって?」

 取り成すように言っても、守狐からの返事は素っ気無い。
 相変わらず表情が読めない守狐に、屏風のぞきはいよいよ困惑しながら、小さく、告げる。

「どうって…船…」
「船…!」

 守狐の眼が、随分と大きく、見開かれて、屏風のぞきが、驚く。
 何か言おうと、口を開きかけたけれど。
 そのまま、手首を引っ掴まれて歩き出されてしまったから、結局、何も言えなかった。


「………」
「………」

 蔵の奥座敷。
 二人、過ごすことの多くなった、決して広くないこの場所で。
 向かい合って座ったっきり、口を開かない守狐に、何となく、話しかけ辛くて、屏風のぞきも、黙り込む。
 つい、行儀良く膝を揃えて、正座なんぞしてしまう。
 気まずい沈黙が満ちる中、鶯だけが、のんびりと、鳴いた。
 屏風のぞきの視線が、伺うように守狐を見上げる。 
 守狐が、屏風のぞきに対して機嫌を傾けるなど、殆どないから。
 このような事態には、てんで、不慣れだった。
 何か言おうかと、口を開きかけた時。
 守狐が一つ、溜息を吐いた。

「先に…言ったよねぇ?一人で遠出をするなと」
「ひ、一人じゃあないよ。…おしろと蛇骨婆が一緒だ」

 慌てて返せば、また、呆れた様に溜息を吐かれた。
 それでは一人と変わらぬと、守狐は思う。

「船になぞ乗って…もしもの事があったらどうするんだい」
「…平気、さ…」

 言葉は、強気だけれど。
 魂を得てから初めての船で、散々に酔った所為か、声音が弱い。
 視線を逸らす様に、また、守狐が溜息を吐いた。

「人が手繰るものなど、信用なるものか。川風が当たるだけで辛かったろう」
「…ぅ……」

 まるでどこぞから見ていた様な物言いに、今度こそ、何も言い返せなくなる。
 いっそ、どこぞの気に入らない手代の様に、頭ごなしに怒鳴りつけるぐらいしてくれたら、不貞腐れる事だって、文句を垂れる事だって出来るのに。
 呆れたように、諭すような守狐の遣り口が、屏風のぞきは一等苦手だった。
 とうとう、畳の目を睨みつけてるようになってしまった屏風のぞきに、守狐は尚も、言葉を続ける。

「その上、妖退治の御坊に会いに行くなぞ…」
「だから寛朝は…」
「それだけじゃあないよ」

 屏風のぞきの言葉を遮って。
 続ける守狐の眉が、その時の事を思い出したのか、不快に顰められる。

「どうやらあいつはお前を気に入ったみたいだった」
「…は…?」

 思わず、間が抜けた声を漏らす屏風のぞきは、どうやら気付いていないようだけれど。
 往来で声を掛けてきた寛朝の眼は確かに、屏風のぞきを捕らえていて。 
 そこに浮かぶ好色な色に、守狐はいっそ喉笛を噛み切ってやりたい心地にさせられた。

「そんなこと…」
「無いと言いきれるかい?」
 
 どうしても、声音に、苛立った様な色が、滲んでしまう。
 結局また、俯いてしまった屏風のぞきに、守狐は内心で一つ、溜息を吐いて。
 その口の端、苦笑を載せる。

「兎に角もう、あんな剣呑な御坊のとこになぞ、行かないでおくれ」
「…うん…」

 頷いてはいるけれど。
 不服そうな色が滲むのに、守狐はそうっと、その己と同じぐらい細い背を、抱き寄せる。

「心配なんだよ」
「うん…。でも、でもあたしだって、若だんなのお役に立ちたかったんだよ」

 きゅっと、守狐の着物を握り締めながら。
 零された言葉に、宥めるように、髪を梳く。

「ならせめて、私が傍にいるときに、しておくれよ。…もしお前に何かあったら堪らない」
「だったらずっと傍にいろ」

 きつく、守狐の肩口に顔を埋めながら、投げられた言葉に滲むのは、普段は決して、告げられることの無い寂しさ。
 時たま、守狐は随分と長い間、長崎屋を離れてしまうから。
 それはとても寂しいのだと、詰るような声音が告げる。

「すまないね…」
「…良いよ…」

 苦笑交じりに、宥めるように背を撫でれば、ふるり、首を左右に打ち振られた。
 どうしようもないことは、お互い、良く分かっていたから
 
「もう、広徳寺には行かない。…船にも乗らない」
「うん。…随分今日は良い子だね」

 素直に吐き出された言葉に、揶揄する様に笑ってみれば、屏風のぞきの眼が、上目越しに睨みつけてきたあと、不意に、逸らされる。 
 
「またいつ逢えなくなるとも限らないんだ。…つまらないことで気まずくなったりしたくない、よ」

 小さく、本当に小さく漏らされた言葉に、思わず、目を見開く。
 覗きこんだ目元が、朱い。
 知らず、守狐の口元、浮かぶのは微笑。

「愛しいよ」
 
 ひどく嬉しげな声音に抱きすくめられて。
 そっぽを向いたまま、屏風のぞきは応えなかったけれど。
 その手はしっかりと、守狐の着物を、掴んでいた。