春の空模様は不安定だ。
「晴れてたのにねぇ…」
呟く声も、雨音と混じり合い、生温い空気に、溶ける。
見上げる空は、薄暗い。
見えぬ程に柔い糸を、降り注いでいた。
ふうわり、桃の香が優しい。
「花、散っちゃうね…」
やっと、熱が下がって。
散る間際、その花がまだ残るうちに、桃花を見に行きたいと、ごねて強請って、ようやっと、二人の兄やを納得させたのに。
降りしきる雨は弱いけれど、花を散らすのには十二分。
桃の花で有名なお社の境内。
集まっていた人は皆、散り散りに帰ってしまい、ひどく静かだ。
濡れ縁に腰掛けながら、零す一太郎の声は、心底残念そうで、傍らの松之助が小さく、笑みを零した。
「また、来年がありますよ」
「去年もそう言われたよ」
ため息混じりに零せば、返ってくるのは困ったような笑み。
はらはらと、足元に薄紅の花弁が、散った。
ふうわり、桃の香が、優しい。
「冷えませんか?」
「……う、ん。…大丈夫」
心配そうに、きゅうっと手指を握られ、近すぎる距離で覗き込まれて、とくり、胸が騒ぐ。
微笑を返しても、松之助は心配そうに眉根を寄せたまま。
濡れ縁に立て掛けられた傘を、視線で示す。
「一応傘は持ってきましたから…」
体が冷えぬうちに、早く帰ろうと、言い出しかねない空気に、名残惜しいような心地にさせられ、知らず、俯いてしまう。
「若だんな?やはり体調が…」
心配そうな声音に覗き込まれ、ふるり、首を振る。
帰りたくは、無いけれど。
余り無理はできないことは、自分自身がよく、分かっていた。
「そうだね。雨も上がりかけてるし…帰ろうか」
「ええ。佐助さんたちも心配してるでしょうし」
きゅっと、絡めたままの手指を握り返せば、一瞬、戸惑う気配を見せたけれど。
微笑いながら、受け入れてくれた。
春の空模様は不安定だから。
西の空はもう、明るい。
「行きましょうか」
「兄さん」
立ち上がり掛ける手を、引く。
小首を傾げる松之助に向かって、両の腕を、広げる。
「疲れちゃった」
上目越し、悪戯を仕掛けるように、笑えば、松之助は一瞬、目を見開いた後。 笑いながら、背中を差し出してくれた。
「よいっ、しょ…」
負ぶされば、触れる背中が、温かい。
自分よりもずっと、広い背に身を預けながら、早く追いつきたい、と切に思う。
「重い?」
「軽すぎるくらいですよ」
苦笑混じりに返される言葉が、少し情けない。
「早く兄さんみたいになりたいよ…」
ふらつきもせず、歩き出す松之助の背に揺られながら。
心底そう呟けば、励ますように、背を叩かれた。
その手は大きく、いつだって、優しい。
「すき」
松之助の肩に顎を乗せたまま。
なんとなく、声に出して呟いていた。
「―――っ」
途端、微かに息を詰める気配が、空気を震わせた気がして。
覗き込んだ耳が、赤い。
「兄さん?」
気恥ずかしいのかと、その横顔を覗き込みながら問いかければ、今度ははっきりと、松之助の身体が、強張るのが、分かる。
「どうしたの?」
「……っそこ、で…喋らないで下さい…っ」
少し震える声音に、初めて、己の吐息が、松之助の首筋を掠める位置にいることに、気付く。
知らず、口角が吊りあがる己に気付き、内心、漏らす苦笑。
「くすぐったい?」
「―――っ」
今度は意識して、肩口に顎を乗せたまま、首筋から耳へと、掠める様に囁く。
立ち止まってしまった松之助の目の前を、ふうわり、薄紅の花弁が、掠めた。
「も、本当…危ない、から…」
困った様に眉尻を下げながら、振り返る目元が、赤い。
近すぎる距離に。
対等になった、いつも見上げていた目線に。
とくり、胸が鳴る。
「兄さん」
強引に、その顔を引き寄せれば、肩に掛けていた傘が、傾ぐ。
柔い雨は、雫すら、流さない。
代わりに桃の花弁が、貼り付いていたのか、二人の世界を、斑に染めた。
「…っ?い…っ」
名前を、呼びたかったのか。
拒絶の言葉を、吐き出したかったのか。
どちらか分からぬまま、先の言葉を奪うように、松之助の唇を、己のそれで塞ぐ。
「は…ぁ…」
微かに、上がった吐息はどちらのものか。
朱に染まる目元を見つめながら、己も同じぐらい、朱くなっているのだろうなと、熱くなる目元を持余しながら、思う。
ふうわり、薄紅の花弁が、また散った。
「花、散っちゃうね」
微笑いながら、呟けば。
「また、来年がありますよ」
視線を逸らすように、正面に向き直りながら。
赤い頬で、気恥ずかしさを隠すように早口に、松之助が答えてくれた。
「来年も、来ようね」
態と、吐息が首筋を掠める様に。
囁けば、一瞬、息を詰める気配の後。
もう首筋まで赤くなりながら小さく、本当に小さく、頷いてくれた松之助に、一太郎はひどく嬉しそうな笑みを浮かべた。
「すき」
きゅうと、自分よりずっと広い背に、身を寄せる。
ふうわり、桃の香が優しい。
春の空模様は、不安定だから。
薄墨を流したような空はもう、晴れ間を覗かせていて。
柔い雨すら、止んでいた。
くるり、ふわり。
薄紅の花弁が、また散った。