風呂から上がった途端、身を切るような寒さが、温まった体温を奪おうと押し寄せてくる。
 けれど軽く火照った体には、そこかそれが心地よくすら、感じられた。
 それでも湯冷めしては敵わないので、裸足の足にはひどく冷たい廊下を、ぺたぺたと足早に歩く。
 その時不意に自分を包んだ慣れた違和感に、仁吉は思わず苦笑した。

「相変わらずだねぇ」
 呆れたように呟きながら、布団の中で丸くなる大きな茶色い犬に声を掛ける。
「人形は寒いんだよ」
 犬は言いながら更にしっかりと、体を丸くする。
 変化を解いて犬神に戻った佐助が、先に布団に入っていたのだ。
 毎年冬になると見られる光景に、仁吉は思わず苦笑して、それでもいつまでも突っ立てるのは寒いので、
佐助の布団に潜り込む。
 ふかりとした毛皮は、抱いて眠るとひどく暖かい。
「めずらしいね。お前が変化を解くなんて」
 丸まったまま、顔も上げずに言う佐助に、仁吉はその耳の根元を撫でてやりながら微笑する。
「お前さんが結界を張ってくれてるからね。たまには戻らないと」
 そう、先程感じた違和感は、佐助が離れ全体に張り巡らした、人払いの結界だ。
 毎年冬になると『人形は寒い』と言って犬神の姿に戻って眠る佐助は、夜になると必ず、
人払いの結界を離れに張り巡らせる。
 母屋から人が来ないようにするためだ。
 もし夜中に母屋で何かあれば、人が呼びにくるより先に、妖たちが騒ぎ出す。
 人より妖のほうが、耳が早いから。
 仁吉と違い、弘法大師に作られた佐助は、こんな風に法師が使うような、人が使うような術が使えるのだ。
 その用途は限りなくいい加減なものだが…。

「お前さんまで変化を解いたら、みんなびっくりしてどっかに逃げちまうよ」
「だったらお前が人形をお取りよ」
 そう言うと、佐助が片目だけ開けて、見やってくる。
 視線が絡むと、どちらとも無く零れる微笑。
 佐助のように完全にもとの姿には戻っていない、いわば半妖とでもいうような姿でも、白沢程になれば、
その身から迸る気は強い。
 佐助は完全に元の姿に戻ってしまっているから、大きな二つの気が、満ち溢れるこの部屋には、鳴家たちのような、
小妖は近づけない。
 明日になればきっと、生意気な屏風のぞきあたりから苦情が来ることだろう。
 仁吉は明らかに人のそれではない銀糸の髪を細い指先でかき上げながら、佐助の柔らかい毛並みに顔をうずめる。
 琥珀色の双眸は、穏やかな光を湛えて、腕の中の犬神をみつめていた。
「おやすみ」
「おやすみ…」
 行灯を吹き消すと、穏やかな夜の闇が、二人を包み込む。
 お互いの体温を心地よく感じながら、二人は優しい睡魔に呑まれていった。


「…ん?」
 腕の中に戻ってきた体温に、先程とは違う感覚を覚え、仁吉はふっと目が覚めた。
 妖の目で見れば、腕の中で寝息を立てるのは、いつの間にか半妖の姿に戻った佐助だった。
 そのあどけないまでに無防備な寝顔に、思わず笑みが零れる。
 先程そっと、腕の中から抜け出す気配があったから、小水にでも立ったのだろうと思ってはいたが、
どうやら寝惚けて完全に人形をとらずに半妖のままで行ったらしい。
 手水は離れと母屋の境にあるから、結界の境界線にも近く、一番人目にもつきやすい。
 一応そこは気にしたらしいが…。
『ま、誰も気づいちゃいないだろうさ』
 気づいたとて、佐助は自分とは違い、半妖でも、精々耳と尻尾があるぐらいで、
口を開かない限りはその鋭い牙が見えるわけでもなく、仁吉程には人形との外見に差異は無い。
 それに今は夜中だ。
 みられたとしても相手が寝惚けていたといえばそれまでだ。
 ひたりと、無意識の内に絡ませてくる足先は、外に出た所為で少し冷えたのか、冷たい。
 先程と違って寒かろうと、その体を抱きこんでやりながら、仁吉は再び眠りの海へとその意識を投げ打った―。

 翌朝、どうして半分変化が戻っているのかと、小首を傾げる佐助に、笑いを堪える仁吉の姿が、
穏やかな朝の離れにあったと言う―。