ふんわり。
鼻腔を擽る香りに顔を上げた途端。
「若だんなぁ」
一斉に懐に飛び込んできた鳴家たちに、一太郎は驚いたように、声を上げた。
小さな小さな手には、枝ごと手折ってきたのか、椿が一輪、持たれていて。
「若だんな、椿が咲きました!」
差し出されるそれに、一瞬、息を詰める。
気取られぬ様に、笑顔を作って、受け取る。
背中で屏風のぞきが、呆れたような声を上げた。
「馬鹿、商売人の家に椿なんか持ち込むんじゃあ無いよ、縁起が悪い」
その言葉に、鳴家たちが騒ぎ出す。
不安げに見上げられて、何か言葉を掛けなければと思うのに。
何時もなら簡単に出てくるはずの言の葉が、喉に絡み付く。
ただ、困った様に笑うのが精一杯だった。
「さぁ…迷信だとは私は思うけどねぇ…」
そっと、鳴家の小さな頭を撫でてやる。
知らず、ぎゅっと手の中の枝を握り締めていた。
「まぁ、人と言うのはそういうものを気にしますからね。…誰かに見つかったら嫌な顔をされるでしょうから」
言いながら、手の中のそれを、取り上げられる。
紅い花が、揺れる。
―落ちる…―
瞬間的に、そう思った。
けれど、紅い花は未だ、佐助の手の中、濃緑の葉に護られるように、枝にその姿を揺らしていて。
ほっと、安堵する。
知らず、視線を背けていた。
「これはあたしが処分しときますから」
「うん…」
残念そうな声を上げる鳴家たちを、宥めすかしながら。
それでも、何処かで安堵している自分に、一太郎は気付いていた。
不意に、廊下に足音が、響く。
鳴家たちが、さっとその姿を影に隠した。
「若だんな、具合はどうですか?」
からり、開いた障子の向こう。
柔らかな春の日差しと一緒に、顔を見せたのは松之助。
知らず、一太郎の顔に、笑みが浮かぶ。
「さっきお客さんに桜餅を頂いたので…」
ふんわり。
部屋に満ちる、春の甘い匂い。
「そりゃあ、いい。…あたしはお茶の用意をしてきます」
「あ、うん…」
気を利かせてくれたのか。
佐助が笑みを残して、松之助が入ってきたばかりの障子を、潜る。
紅が、視界から、消えた。
その背を見送りながら、珍しいですねと、小首を傾げる松之助。
「え…?」
「椿。…普通皆嫌うでしょう?」
「あ、あぁ…。佐助がね、外出の時に子ども達から貰ったみたいで…」
咄嗟に、誤魔化す。
松之助が納得したように、笑った。
「綺麗な花なんですけどね。…商売人には嫌われる」
「まぁ…ね…私もあまり…好きではない。かな…」
微笑えば、つっと、松之助が眉根を寄せる。
どうしたのかと、小首を傾げた時。
「何かあるのかい?」
「え…?」
不意の言葉に、面食らう。
そっと、松之助の手が、頬に触れる。
温かいそれに、知らず、抱く、安堵感。
「すごく…哀しそうな顔をするから…」
心配げに見つめられ、一太郎の眼が、驚いた様に、見開かれた。
―巧く…微笑ったつもりだったのだけれど…ね…―
内心、零す苦笑。
誰にも気取られていないつもりだったのに。
「すごいね…。兄さんには分かるんだ」
笑っても、松之助の愁眉が、開かれることは無くて。
今度ははっきりと、苦笑を零す。
開け放たれたままの障子の向こう。
視線を向ければ、春の日差しの中、木蓮の蕾が、綻び掛けていて。
今年は花開くところを見れるかしらと、ぼんやりと思う。
「椿、は…他の花と違って、花ごと、落ちるじゃない」
それが、堪え性無く一息に落ちて縁起が悪いと、商売人に嫌われる理由。
無言で、続きを促され、ぽつり、ぽつりと、言葉を零す。
「潔く、落ちるじゃあない」
それが、武家では、好まれる理由。
潔く、散る様は己に通じるものがあると。
「まるで、責められているような気がして、ね…」
いつまでも、諦め悪く生にしがみ付く己を。
地を紅く染める、椿の花は、まるで死を突きつけられている様で。
幼い頃、感じたそれは、今も、心の奥底に染み付いて、決して拭えない。
「だから、好きじゃあな…」
言葉が、全部終わる前。
不意に、視界を塞がれ、一太郎は当てられた掌の下から、松之助を見上げた。
「そんな…」
真上から降ってくる声に。
すぐ傍に感じる体温に。
抱きこまれたことを、知る。
「そんな哀しい思いで、見てはいけないよ…」
降る、松之助の声は、ひどく、優しい。
「どうして、花が落ちることが、死ぬことになるんだい?」
「………」
その言葉に、一瞬、息を詰めていた。
己の吐息が、震えるのが分かる。
瞼を閉じれば、暗闇の中、感じるのは、松之助の鼓動。
「花が散って、種を作って、葉を茂らせて。…それは、生きている証じゃあないか」
「…うん…」
頷く。
一太郎の睫毛が、松之助の掌を、擽る。
そっと、掌が、離れていく。
明るくなった視界の中、顔を上げれば、ぶつかる、優しい眼差し。
「花が散るというのは、懸命に生きているということの、証じゃあ、ないかい…?」
問いかけられて。
小さく、頷く。
俯いた途端。
ぱたり、涙が、膝の上に落ちた。
「そう…。そう、だね。…どうして私は…」
今までそんな簡単なことに気付かなかったのか。
どうして、地を染める紅に、不吉な死の影を重ねたりしたのか。
あんなにも。
「生きて、いるのにね…」
顔を上げる。
ぶつかる視線に、微笑えば、ようやっと、松之助も、微笑ってくれた。
ひどく優しい指先に、涙に濡れた眦を、拭われる。
小さく、笑みを零して。
ゆるく、首筋に腕を、絡ませれば、拒むことなく、受け入れられる。
抱きとめられ、背を包む腕の温もりに、抱くのは安堵感。
そっと、首筋に顔を埋めれば、感じるのは鼓動。
それはひどく、愛しくて、温かい。
「生きて、いるんだ…」
呟く、口元に浮かぶのは、ひどく穏やかな、微笑。
「そう。だから…」
「うん…」
頷いて。
「一太郎も…」と、続く言葉を、口付けで遮る。
触れるだけのそれに、どちらともなく、交わすのは笑い顔。
染み付いた紅に、もう、怯えることはない。
開け放たれた障子の向こう。
降り注ぐ温かな陽が、二人を包み込んでいた―。