「それじゃそろそろお暇しますわ」
そう言って立ち上がるお雛に、於りんは不満げに頬を膨らませた。
その姿に、眉根を寄せるお雛。
一太郎は苦笑して、於りんの頭を撫でてやる。
「またいつでもおいで。そうだ、今度来た時には菓子を用意しておくよ。…小鬼たちと食べるといい」
最後の一言は於りんにしか聞こえないような小声で囁いて、その小さな背を送り出すと、途端、於りんは機嫌よく頷いて、
またねとその小さな手を一太郎に振った。
「それでは失礼します」
「あたしが送りましょう」
病み上がりの癖に通りまで送り出そうと立ち上がり掛ける一太郎を、仁吉は無理やり布団に放り込むと、
病弱な主人に代わって席を立つ。
「いつもすみません」
「いえ、若だんなの気晴らしにもなりますから」
人当たりの良い笑顔を浮かべながら送り出してくれる仁吉に、お雛は「あ」、と声を上げて、己の懐から何かを取り出し、仁吉の手に握らせた。
「これは・・・」
手の中のものを見止め、仁吉が目を見張る。
とっさに返そうとするのを、お雛はやんわりと止めた。
「私がつけることももう無いですから…さっきも言いましたけど、あんまり評判良くなかったんです」
そう言って苦笑するお雛に、仁吉は尚も戸惑う。
「でもこれは・・・高直な物なんでしょう?」
「うちには売るほどありますから」
そう言って笑うお雛が、不意に小声で囁いた。
「どなたかこれが似合うと思われたお嬢さんがいらっしゃったんでしょう?」
その言葉に仁吉が驚いてお雛の、最近化粧が随分薄くなった、可愛らしい顔を見返すと、お雛はころころと笑う。
「女ですもの。わかりますわ」
「そんなもんですか」
「そんなもんですよ」
鸚鵡返しに言うお雛に、仁吉の片から力が抜ける。
「ありがとうございます。頂きますよ」
「えぇ。…使い差しで申し訳ないですが・・・」
満足気に笑うと、お雛は仁吉が呼んだ籠に乗って、於りんと連れ立って帰って行った。
後に残された仁吉は、手の中の物を見つめ、思わず呟く。
「お嬢さんねぇ…そんないいもんじゃないんだけどね」
脳裏に思い描いた、不機嫌そうな顔に、思わず、笑みが零れた―。
「やめとくれったらっ!」
「うるさい。じっとしてな」
もう何度、こんな会話を繰り返したか分からない。
掴まれた手を振り解こうにも、強く手首を捉えられていて叶わない。
何より、自分の指先を見つめる目が、意外なほどに真剣で、振り払うことすら躊躇われた。
「・・・・・・」
抵抗するのも諦めたが、それでも戸惑いと困惑が滲む視線の先で、一本、二本とそれは丁寧に仕上げられていく。
仁吉はその細い指先に持った小さな刷毛を細かく動かしながら、鮮やかに紅い爪紅で、屏風のぞきの手指の爪を塗り上げていった。
白く、仁吉のそれよりも幾分細い指先に、その派手な紅は良く映える。
爪が何かに塗り込められて行くような感覚に、屏風のぞきは小さく身を竦ませた。
『お雛さんめ・・・余計なことをしてくれたよ』
昨日の事を思い出しながら、屏風のぞきは思わず内心で、溜息を付いた。
昨日の事だ。
「あれ、お雛さん。随分綺麗な爪をしてますね」
一太郎のその言葉に、お雛はさっと手指の先を隠し、照れたように笑う。
「昨日店に入ってきましてね。爪紅なんて珍しくてつい・・・」
「似合ってないって言われたんですけど・・・」と苦笑するお雛の爪は、鮮やかな紅に彩られていた。
色の白いお雛に、それは良く映えていたが、どちらかというと可愛らしい感じのお雛の面立ちには、
確かにそれは少し浮いていた。
「爪紅ですか・・・」
呟く仁吉の視線が、艶やかに紅い爪先に、吸い寄せられる。
お雛に馴染みが出来てしまった為に、隣の間に追いやられた派手な屏風が、ちらと頭を掠めた。
「・・・・・」
そんな仁吉の視線を、お雛が不思議そうに小首を傾げて見つめていた―。
両の手十指とも、綺麗に紅く塗り上げられ、最後に微かにはみ出した部分を折りたたんだ懐紙の角で丁寧に拭われる。
「さぁ出来た。乾くまで動かすんじゃないよ」
ようやっと開放された手を振りつつ、何気なく翳してみる。
指先同士がぶつからぬよう、そっと指を動かすと、艶やかな紅は爪の動きに合わせて妖艶に光った。
「・・・・・」
その派手さに、元が派手好な屏風のぞきは、満更でもないかしらと、ぼんやりと思う。
「やっぱりね。よく似合うよ」
唐突に掛けられたらしからぬ言葉に驚いて見遣ると、微笑を浮かべる仁吉の顔があり、屏風のぞきは慌てて視線を逸らした。
目元が熱い。
赤くなっている事を気取られぬよう顔を背けながら、半ば自棄気味に言った。
「きょ…今日一日なら付けてやってても良いよ」
「ああ。そうしてくれると嬉しいね」
さらりと言われた言葉に、耳まで熱くなって来る。
振り返った仁吉が、今までに見たこともないような嬉しそうな顔で笑っていたから―。
その日一日、屏風のぞきの爪は艶やかに紅かった―。