「つまり海って言うのは塩水の水溜りなんだろう?」
 
 屏風のぞきの言葉に、仁吉は小馬鹿にしたような笑みを浮かべた。

「水溜まりたぁお粗末だね」

 けれど、続いて、海を全く見た事が無いという屏風のぞきに、海という物を説明しようとして、仁吉はやはり、適当な言葉を見つけられず、その眉間に皺を刻む。

「ホラ見ろ。やっぱり水溜りなんじゃないか」

 むすくたれたまま呟く屏風のぞきを、仁吉は不機嫌そうに睨みつけて黙らせる。
 そんな様を眺めながら、一太郎の脳裏にふと、懐かしい記憶が蘇り、思わず、苦笑を漏し、呟く。

「あの時は栄吉に悪いことをしたねぇ…」
 
 相も変わらず睨みあう二人を視界の隅に見止めながら、一太郎の記憶はゆっくりと、過去を語り始めた。 

 
 真夏の陽射しが、庭土を乾かせ、白く光らせる。
 青々と茂った庭木の葉は、それでも、昼時の強い日差しには敵わないのか、どこか力無い。
 微かに聞える、通りを歩く物売りの声も、暑さにやられたのか、覇気が無かった。
 頭の中がぼうっとするほどに、煩い蝉時雨。
 一太郎は、縁側で、ぼんやりとそんな光景を眺めながら、そっと足元に横たわる老犬の腹を撫でてやる。
 先ほど小僧が撒いて行った打ち水のお陰で、僅かに涼しい風が、頬を撫でるのが心地よい。
 ゆっくりと上下する腹を撫でて居た時だった。
 老犬が不意に、その頭を少しだけもたげた。
 その動きに合わせ、視線を遣り、見慣れた、何より嬉しい小さな来客の姿を見つけ、破顔する。

「一太郎、今日は調子がいいみたいだね」

 栄吉の言葉に頷きながら、二人並んで縁側に座って、届けられた菓子を開く。
 涼しげな水饅頭を、二人で頬張りながら、栄吉がすっと、一太郎に握った手を差し出した。

「…?」

 きょとんとした表情で己を見返す一太郎に、栄吉はにっと、屈託ない笑みをその顔に浮かべる。

「やるよ。昨日海に行ったときに拾ったんだ」

 言われ、一太郎がおずおずと掌を差し出す。
 ことりと、掌に置かれたものを見て、一太郎は目を見開く。
 それは、小さな小さな桜貝。
 薄紅が美しいそれに、一太郎は小さく、感嘆の声を上げた。

「一太郎の家は海から荷を運んできてるから…もしかしたら見慣れてるかもしれないけど…」

 微かに不安げな色を滲ませて覗き込んでくる栄吉に、一太郎はふるふると、その小さな頭を左右に振る。

「そんなことないよ。ありがとう」

 嬉しそうに笑う一太郎に、栄吉もつられ、照れたように笑う。
 二人の、幼子の明るい笑い声が、夏の空気を揺らす。

「すごいね栄吉は、海に行った事があるんだ」

 感心したように言う一太郎に、栄吉は意外そうに目を見開いた。

「一太郎は行った事が無いの?」
 
 一太郎の家の稼業を、幼いながらも、何となくは知っていた栄吉は、信じられないという表情を浮かべる。

「我はずっと寝てばかりだから…」

 情けなさそうに呟く一太郎に、栄吉は「あ…そっか…」と呟き、己の問いかけを少し、後悔した。
 二人の間に、ほんの少し気まずい沈黙が下りる。
 
『せっかく栄吉が来てくれたのに…』

 一太郎の内に焦りににも似た不安がよぎり、慌てて口を開く。

「あ…我に海の事教えてっ?」

 一太郎の言葉に、弾かれたように顔を上げた栄吉は、その目を輝かせた。
 病に臥せってばかりの友に、己が見聞きした海を教えてやろうと、必死に言葉を手繰る。

「海って言うのはね…っ」
「うんっ」

 栄吉を見上げる、期待に満ちた眼差し。
 栄吉は懸命に、己の頭の中身を伝えようと、拙い言葉で羅列した。

「海は塩辛くて、大きくて…」
「塩辛くて大きな水なの?」

 一太郎の問に頷きながら、言葉を続ける。

「とにかくいっぱいの水なんだ」

 小さな両手をいっぱいに開いて、栄吉は言う。
 
「川よりもずっとずっと大きくて、波が立ってるんだ。すごく、荒々しい時もあるんだよ」
「塩辛くて…大きな水溜り?」

 小首を傾げる一太郎に、己の頭の中身が、巧く伝えられないことに、歯噛みする。
 そして、海の一番の特徴は何だろうかと、懸命に思考を巡らせた。

「そうだっ海はね、海はとにかく真っ青なんだ」

 その言葉に、一太郎は尚も小首を傾げる。

「青い水なんて…本当にあるのかしら…?」
「あるよっ海は青いんだ」

 栄吉は言いながら、見せてやった方が早いと思いつく。

「今度、海を持ってきてやるよ。本当に青いんだから」
「本当?」
 
 目を輝かせた一太郎に、栄吉は真面目な顔で頷き返す。

「約束」
「約束」

 互いに小指を絡ませ、げんまんを結んだところで、栄吉は店の手伝いがあるからと、帰っていった。
 その背を見送りながら、一太郎は老犬に話しかける。

「海を持ってきてくれるって。楽しみだねぇ」

 
 翌日、いつもより少し遅い時刻、一太郎の元に、手桶を抱えた栄吉がやって来た。

「一太郎っ海を持ってきたよ」
 
 その言葉に、一太郎は縁側から飛び降りて駆け寄る。
 足元に置かれた手桶には、手ぬぐいが掛けられて中が見えない。

「どうして手拭いを掛けてるの?」
「お日様に当たると水が乾いちまうからさ」

 誇らしげに言う栄吉。
 つい先日、そのことを教えてもらったばかりなのは、一太郎には内緒だ。

「海があるの?」
「うん。早起きして汲んで来たんだ。一番青いところを汲んだんだよ」

 言いながら、早くとせがまれ、栄吉は掛けられた手ぬぐいに手を掛ける。
 さっとそれを引くと、二人同時に覗きこんだ。

「……」
「…あれ…?」

 そこにあるのは、井戸の水と同じように、澄んだ透明の水だった。
 青くもなければ、栄吉が言うような、怒涛の波もない。
 二人の影を写しながら、夏の日にきらめき、揺れる。
 指先で触れ、舐めれば確かに塩辛かったが、一太郎にしてみれば、ただの塩水と変わらない。

「嘘つきっ…やっぱり青い水なんてないじゃないか」
 
 期待していた分、落胆は大きい。
 詰る一太郎に、栄吉は困惑したように、己が持って来た手桶の底を覗き込む。

「おかしいなぁ。朝までは確かに海だったのにっ!」