ぱさりと。
席に着いた途端、丁寧にまとめていた書類の上から、滑り落ちてきた一葉の葉書。
涼しげな浜辺のイラストが添えられた郵便局が売り出している暑中見舞い用のそれに、墨痕も鮮やかに書かれていたのは定例文の見舞いを告げる一行のみ。
愛しい人の筆跡を見紛うことはないけれど。
あまりに素っ気無いそれに、店が忙しいんだろうかと、訝しげに眉根寄せながら、秘書が淹れてくれた温かなコーヒーを啜る。
くるり、葉書を返せば、差出人はやはり井上源三郎その人で。
宛名書きでさえ、今時珍しくきちんと手書きの毛筆で書かれている。

―まあ、井上さんは機械と言う機械が苦手な人ですからねえ…―

あまりに前時代的な井上に、総司が以前「源さんは生まれ変わったんじゃなくて、タイムスリップしてきたんだよ」と、呆れた様に言っていたのを思い出す。
それにしても。

―何で会社に送ったんでしょう…?―

冷房の訊いた社内で。
温かなコーヒーが、やけに苦かった。



「そう言えば井上さん」

まだ客の集まりきらぬ宵の口。
小料理屋「源」のカウンターの、己の指定席に腰掛ながら、ふと昼間の葉書を思い出す。

「うん?」

カウンターの中で、忙しく手を動かしながら、それでも視線を向けてくれる井上に、湯のみを傾けながら昼間の疑問を投げかける。

「どうして態々会社に送ってくれたんです?」
「あ?暑中見舞いか?だってお前ぇ…家に居るより会社に居るほうが長ぇじゃねえか」

言いながら、何故か気まずそうに視線を逸らす井上。
その態度に、僅かに眉を寄せ掛けた時。

「源さーん。暑中見舞いありがとー!」

静かな琴の音が流れる、落ち着いた小料理屋の店内に凡そ似つかわしくない騒がしい声に、山南が振り返ればひらひらと一葉の葉書を翳した総司が、笑顔で暖簾を潜る。

「おう。届いたか」

その言動を咎めるでもなく、笑って席を勧める井上は、転生しても総司には甘い。

「うん。これ、お返事」

言いながら、相変わらずお世辞にも上手いとは言えない字で書き綴られた、最近流行のクマのキャラクターのイラストがプリントされた葉書を差し出す総司。

「お。ありがとうよ」

本来ならきちんとポストに投函して返すのが礼儀だろう。
相変わらず咎める気配のない井上に代わり、流石に小言をと、口を開きかけたとき。

「もー源さんってば、暑中見舞いにまでクーラー病に気をつけろとか、早寝早起きしろとか書くんだもん。俺もう18だよ?」
「お前がそうやっていつまでもガキっぽいからだろ」

愛車を止めてきたのか、遅れてきた紅輝が、総司の隣に腰掛けながら呆れた様に総司のミルクティー色の後頭を叩く。

「コウさんだって、野菜食えとか書かれてたくせにー」
「うるさい。源さん、沢庵」
「うるさいじゃねえよ紅輝。一人ひとりちゃあんと書いてやってんだから真面目に読め」

苦笑交じりの井上の言葉に、山南は微かに、目を見開く。

「一人ひとり…?」

思い出すのは、昼間の「暑中お見舞い申し上げます」とだけ書かれた。空白の目立つ寂しい書面。
律儀な井上の性格の上に、この商売柄だ。
友人である自分達にまで出してくれていたのだとなると、その数は膨大になる。
自分だけ、たまたま書き忘れたのだろうか。

「山南さんは何て書いてあったのー?」

不意に、覗き込むように訊ねられて。
寸の間、言葉に詰まる。

「私は…」
「総司、注文は?お前が好きなのなんでも揚げてやるぞ」
「わーい!源さんの天麩羅だ!俺えびが良い」

二人の会話を、遮るように。
割って入ってきた井上に視線を向ければ、今度ははっきりと、視線を逸らされる。

―井上さん…?―

やはりあの空白は、書き忘れではなかったのだろうか。

―私には何も掛ける言葉が無いと…?―

井上がどういう意図で空白にしたのか。
考えてみるが、答えなど出るわけも無く。
もともと、山南が押し流す形で始まった関係だ。
井上は自分に対して、他の誰より深い友情を抱いてくれてはいたが、それは山南が井上に対して抱いている感情とは違うことは知っていた。
それでも、思いを告げたそのとき、井上は受け入れてくれたから。
少しづつ、互いの関係を深めてきたけれど、それは自分の勘違いだったのだろうか。
もしかして、自分との関係を終わらせたいのかと、変に勘繰ってしまいそうになる。

「じゃあお客さん増えてきたし…俺達帰るね。山南さんはどうせ閉店まで居るんでしょ?」

明るい総司の言葉に、はたと、我に返る。
いつの間にか随分客も増えてきて、店内はそれなりに賑やかだ。

「え、ええ。気をつけて」
「うん。源さんご馳走様ー」

手を振る総司に、カウンターの中で忙しそうに客の相手をしていた井上が、応える様に視線だけで笑う。
紅輝と連れ立って出て行く姿を見送りながら、ちらり、カウンターの中の井上に視線を投げる。
閉店後の井上を、家まで送るのが、山南の習いだったから。
思わず、頷いてしまったけれど。
本当はそれすら、井上にとっては迷惑だったんじゃないのか。

「井上さん、私も…」
 
帰ると、言いかけた目の前に、鱧の天麩羅が乗った皿が出される。
山南の好物だが、注文はしていない。

「悪いな敬介。相手できなくてよ。もう少しでピークも過ぎるだろうから、待っててくれ」

苦笑いで早口に告げる井上は、いつもと変わらず、屈託が無い。
自分の、思い過ごしなのだろうか。
では、何故自分だけと、答えの出ない疑問符がぐるぐると渦巻く。

「………」

手入れの行き届いたカウンターの木目を、意味も無く指先でなぞりながら。
笑顔で客を捌く井上の、何時まで経っても少女のような幼い顔立ちには少し不釣合いな渋い濃紺の着流し姿を、常に無く心細い心地で眺めながら。
山南はそっと、随分と温くなってしまった茶に口をつけた。




「ありがとうございました。またどうぞ」

笑顔で、最後の客を送り出して。
暖簾を仕舞う井上を、さりげなく手伝う。

「悪いな。今日は随分遅くなっちまった」
「いえ…私はどうせ明日休みですから…」

気遣わしげに見あげてくる井上に、力なく笑う。
考えすぎて、折角井上があれこれ出してくれた料理も、いつものように味わうことができなかった。

「そうか。明日土曜日か…」

手際よく店を片付けながら、井上が呟くように、独りごちる。
からころと、古風な高下駄を鳴らしながら、カウンターの内外を行ったり来たりする井上を、ぼんやりと見守る。

「敬介、…お前うち来るか?」

ようやく、片付けも終わったのか。
しゅるりと、袖を纏める襷を解きながら早口に問う井上に、一瞬、目を見開く。

―それは、どういう意図で…?―

襷を纏めながら、店の置くへと足を向けることで、器用に視線を逸らした井上の、髪の隙間から僅かに覗く耳が赤い。

「俺ぁどうせ仕事は夜からだからよ。…その、…泊まってくか?」

珍しい、というか、この関係になってから、初めての井上からの誘い。
思わず、一も二も無く、頷いていた。

「是非…!」

勢い込んで言う山南に、僅かに、目元を朱に染めながら。
普段着の作務衣に着替えた井上が、それでも嬉しそうに、笑った。



「なあ敬介」

井上が、学生以来利用している下宿屋を目指しながら。
愛車のハンドルを切る山南に、少々ばつが悪そうに、井上が声をかける。

「何ですか?」

夜も遅いため、道は比較的空いている。
上機嫌で前を見つめながら促せば、決まり悪そうに助手席に座りなおして。

「その、…暑中見舞いのことなんだけどよ」

切り出された言葉に、一瞬、ハンドルを握る手に、力がこもる。
井上からの誘いに、すっかり忘れていたけれど。
やはり、気になることは、間違いなくて。

「ええ」

ちょうど、信号は赤に変わって。
停止した山南を、井上は伺うように、見上げた。

「お前、今日…ちょっと気にしてただろ」

見抜かれていた。
本当はちょっとどころではなく、気にしていたのだけれど。

「あ、あれはよ…俺も、悪いとは思ったんだよ。愛想無さ過ぎるだろうって…」
「忙しかったんですか?」

あまりにも申し訳なさそうに。
時代掛りな雪駄の爪先を見つめて仕舞う井上に、僅かに、苦笑が漏れる。
そっと、その小さな頭を撫でれば、ふるり、首が横に振られる。

「その…あ。青だぞ。信号」

言われて、慌ててアクセルを踏みながら。
前方を見つめたまま、先を促す。

「総司とか紅輝はよ。何だかんだで週1とか、偶にしかあわねえし、あいつら俺の言うこときかねえし」

最後は少し不満げに零した井上に、手の焼ける二人の悪がきの顔を思い浮かべて、山南は小さく、苦笑を漏らす。

「でも、よ…。敬介はいっつも合うし…言いたいことも全部言ってるし…お前、俺の言うこと何でも聞いてくれるだろ?」
「ええ、まあ…。井上さんの言うことは極力全て叶えたいと思ってますから」

「愛してますし」と、続ければ、途端に井上の頬に朱が走る。

「おま…お前がそう言うこと平気で言うから…お、俺が言う隙が無くなっちまうんじゃねえか」

ぎゅうと、作務衣の裾を握ったまま、俯く井上はもう、首筋まで赤い。

「井上さん…」
「そういうこととか、お前昔は全然言わなかったのに、今じゃ山ほど言いやがるし…」

昔とは、前世のことだろうか。

「まあ、昔は想いを自覚したのが死ぬ間際でしたからねえ」

事も無げに告げれば、井上の目が驚いた様に見開かれる。

「お前、昔から?」
「あれ?言ってませんでしたっけ?…ああ。つきましたよ」

古い木造の下宿屋の前で、井上を下ろして。
自分は傍のコインパーキングに、車を止める。
そっと、一階の大家である老婆を起こさぬように、二人、足音を忍ばせ、息を殺して。
井上の自室の在る、二階へと、上る。

「ふう…」

ぱたり、自室の襖を後ろ手に閉めながら、井上がほっと、息を吐く。
自室はまだ、昼間の熱気を残していて、暑い。
かちかちと、電灯の紐を引っ張れば、何度か瞬いて、部屋は白い光に満たされる。
山南と総司が説得して、ようやく取り付けさせたエアコンのスイッチを、勝手に付けながら。
車内の続きをと、山南が、口を開く。

「好きでしたよ。昔からずっと。…だから、今生では後悔しないように、思いを告げようと決意したんです」

情けない話ですが…と、苦笑いで告げれば、井上は人より大きな目を、更に大きく見開いていて。
零れ落ちてしまうんじゃないかと思うほど。

「知らなかった…」

零れるように呟かれた言葉に、山南は苦く笑う。

「言いませんでしたから」

前世では、胸にしまったまま死を選んだ。
誰より優しいこの人を、あの状況下で、更に困らせたくは無かったから。

「井上さん」

立ち尽くす井上の腕を、そっと引いて。
その白い頬に、掠める様に口付ける。

「愛しています」
「―――――っ」

耳元、低く囁けば、井上の体が、びくり、強張る。

「お、お前なあ…っ大体っお前がそんなことばっかり言うから…」
「はい?」

首筋まで、朱に染めて。
よほど気恥ずかしいのか、微かに肩を震わせる井上の大きな瞳には、うっすらと水の膜さえ張っていた。

「お前は俺の言うことなんでもきくし…いっつも傍にいるから、なんかもう、全部今更な気がしたし…っ」

暑中見舞いのことだろう。
言い募る井上に、山南は困惑に眉根を寄せる。

「そ、そういう事だって…お前がいっつも言うから、なんか、俺が書くのもってなって…結局何にも書けなかったじゃねえか!」

「俺だって殆ど白紙でなんか出したくなかったっ!」と、叫ぶように言う井上の、その小さな体を、抱き寄せる。

「井上さん…」

自らの鼓動が、うるさい。
こんなにも可愛い四十路男が、一体何処にいるだろうか。

「私が傍にいすぎて、私ばかりが愛を紡ぐから、暑中見舞いに何もかけなかったと?」
「あ、あい……―――っ!恥ずかしいことばっかり言うな馬鹿野郎!……そうだよ」

羞恥に、きつく山南の胸に顔を押し付けながら。
不遜気に頷く井上を、さらにきつく、抱きすくめる。

「では、私が愛を告げる回数を減らせば、井上さんからも言ってくれるんですか?」

覗き込めば、頬を染めたまま、井上が大きく、目を見開く。
それはすぐに、気恥ずかしそうに逸らされたけれど。

「た、偶には…努力する…」

小さく、本当に小さく、零された言葉に、今度は山南が、目を見開く。

「本当に…?」
「う、うるせえ!何度も訊くなっ!大体、生まれ変わっても好いてくれる奴を、蔑ろになんかできねえだろうが」

「だから今日も誘ったんだ…」と、ようやっと聞き取れるほどの声で零した井上に、山南はもう、声すら出なくて。

「愛しています」

今日、何度目か分からぬ告白に、井上はそっと、詰めていた息を吐き出して。

「…俺も、だよ」

ぐっと、背伸びをして。
憎らしいほど上背のある山南を、引き寄せる。

「――――っ!」

驚きに目を見開く山南に掠める様に口付けた。