「ね、あたしらは、いるだけで、若だんなのお役に立てるんだ。そうだよねぇ」
微妙に呂律の回らぬ声が、一太郎に絡む。
吐息に混じるのは、濃く甘い酒の匂い。
周りを包むのは、呆れる程に賑やかな皆の声。
「うんうん。そうだよ、その通りだよ。…お前たちのお蔭で、私は幸福だよ」
ふうわり。
酒の入った、少し赤い顔に微笑まれ、屏風のぞきが満足げに胸をそらしながら、へらりと嬉しそうに笑った。
その頬もやはり、赤く色づいて。
「ふふっ」
いっそ無邪気とも取れる様な笑みを零す屏風のぞきに、つられる様に一太郎が笑う。
放っておいたらいつまでも笑い合っていそうな酔っ払い二人に、仁吉が呆れたように、屏風のぞきの頭を叩く。
「若だんなに絡むんじゃないよ酔っ払い」
途端、不満げに眉を顰める屏風のぞき。
幼子の様に唇を尖らせながら、酔って気が大きくなっているのか、今度は仁吉に、絡みだす。
頼りない動きを見せる白い手が、仁吉の着物を、掴む。
先の事を見越してか、周囲の妖たちが微かに、苦笑を漏らした。
「何だい、誰が酔っ払いだって?えぇ?」
「それを酔っ払いと言わないで誰を酔っ払いと言うんだ。全く…」
ぐいと、半身に寄りかかってくる屏風のぞきを、仁吉の肘が押し返す。
それがまた不服なのか、仁吉の着物を掴む指に、一層、力が籠もる。
「何だい何だい。あたしはただ、若だんなに、本当の事を確認しただけじゃあないか」
「あぁはいはい」
無情なほどそっけなくあしらわれたのに。
そこは気にならないのか、肯定を得られたという事実のみに、満足げな笑みが、屏風のぞきの口の端に浮かぶ。
「ほぅらね。あたしらは、いるだけで、若だんなのお役に立つんだよぅ」
へらり。
本当に嬉しそうに笑って、屏風のぞきが、その身を仁吉の半身に凭せ掛けた。
殴られる。
誰もが、そう思ったのに。
「はいはい。お前なりによくやったよ」
ふうわり。
ぞんざいな言葉とは裏腹に。
仁吉の手が、本当に優しく、屏風のぞきの頭を、撫でた。
「………………」
ありえない。
誰もが、そう思った。
周囲の呆れるぐらいに騒がしかった空気が、固まる。
踊りだしていた鳴家たちでさえ、団子を持ったまま凍りついた。
「ふふっ」
屏風のぞきだけが、無邪気ともいえるくらいの笑い顔を浮かべて、仁吉の肩に寄りかかる。
仁吉の方はと言えば、涼しい顔のまま、一太郎の為にと、つまみを取り分けていた。
「なぁんだ。本当は仲が良いんだねぇ」
のんびりと。
赤い顔の一太郎が、そう言って無邪気に笑う。
その言葉に、いち早く我に返った佐助が、無言で、空いた皿を片付け始めた。
「そんなことより。料理もきちんと食べて下さい」
言いながら、仁吉の細い指が、取り分けた小皿を、一太郎に差し出す。
常と変わらぬ表情。
常と変わらぬ言葉に、押し切られる様に、周囲の空気が、解ける。
再び、部屋に満ちるのは和やかに楽しい空気。
屏風のぞきだけが、いつの間にか仁吉の肩で寝息を立てていた。
瞼を刺す光に、意識が浮上する。
目を開いた途端、眩しすぎるそれに、小さく身じろぐ。
途端、身を襲っていた頭痛に気づき、反射的に敷き布を握り締めた。
「…………頭が痛い…」
低く、呻き漏らせば、呆れたような溜め息と同時に、頭を蹴飛ばされ、一層激しさを増した痛みに、屏風のぞきは悲鳴を上げる。
「なに………っ」
罵る言葉さえ、口にした途端頭に響いて、途切れてしまう。
「情けないねぇ」
「うるさいよ…あたしはあんたみたいな笊とは違うんだ…」
ほとんど呻くように反論すれば、誰が此処まで運んできてやったんだと言われ、そう言えば此処は仁吉の部屋だと気付く。
軋む記憶を辿れば、宴会の途中で、どうやら己はまた、寝転けてしまったらしい。
屏風にすら戻っていなかった己が、井戸に放り込まれずにあったことに、屏風のぞきは小さく安堵した。
「…頼んでないよ」
寝転けてしまった気まずさに、顔を背けながら小さく零せば、勝手にしろと、また頭を蹴飛ばされる。
それでも、出て行けとは言われないから、これは本当に勝手にして良いのだろう。
勝手にそう解釈して、ぬくぬくとした布団に潜り込む。
顔を埋めれば、鼻孔を擽る、仁吉の匂い。
「仁吉さん」
ふと、思い出したのは記憶か夢か。
「何だい」
見上げれば、もうお店に出るつもりなのか、その細く白い指は、障子に掛けられていた。
その白い指が、自分の頭を撫でていた気がして。
それは本当に、優しかったような気がして。
つい、呼び止めてしまったけれど。
「いや…何でも…何でもない、よ」
きっとそれは夢だ、と思った。
殴られたり蹴飛ばされることは数え切れない程あったけれど。
撫でられるなんて。
それも本当に優しく、撫でられるなんて。
ありえない、と、そう思った。
「そうかい」
言ったきり、開けられた障子から差し込む光に、一瞬、反射的に顔を顰めている間に、仁吉は出ていってしまった。
火鉢に暖められた部屋の空気と、切れるほどに寒い外の空気とが、一瞬だけ、混じり合う。
「ありえない。…よねぇ?」
ぱたんと、倒れ込んだ布団の上。
そっと、己の頭を撫でてみる。
確かに、感触を覚えているような。
覚えていないような。
そもそも現のことならば、それは情欲を交わすことより、気恥ずかしいような気がする。
夢だとしたら、どうしてそんな夢をみたのか。
考えただけで、頬が熱くなるような心地がしたから。
慌て思考を、中断する。
「やめたやめた」
今己は頭が痛いのだ。
つまり調子が悪いのだ。
良くないことは考えないことが一番だ。
そう結論付けて、屏風のぞきはそっと、両の瞼を閉じる。
寝て起きたら、きっとこの頭痛も収まっているだろうから。
―寝て起きたら、あの手の心地も忘れてしまうのかな―
そう思うと、ほんの少し、いや、かなり寂しい心地がしたのには気づかぬふりで。
屏風のぞきは無理矢理、眠りの海に己の思考を逃がしてやった。