「もうっ、兄さんったら!名前で呼んでおくれと言ってるじゃないか」

 ぶうっと、幼子のように頬を膨らませて。
 じれたように言う一太郎に、松之助は困ったように、笑った。

「皆の前では……。一太郎だって、兄と呼ぶのはやめておくれと、いつも言っていたのに、結局聞き入れてくれなかったじゃないか」

 松之助が長崎屋に来たばかりの頃。
 「兄さん」と呼んでも、ぴんと来ないのかなかなか振り返ってくれなくて。
 ようやっと、振り向かせた顔は、困ったような、戸惑うような。
 そんな、表情ばかり、見上げていたのを思い出す。
 何度か控え目に、窘められたけれど。
 頑として呼び続ければ、いつの間にか、はにかむように微笑う顔が、返って来るようになった。
 本当は兄と呼んでくれて嬉しかったのだと、聞いたのは随分、日が経ってからだ。

「それは…だって兄さんは私の兄さんだもの」

 言い切れば、松之助少し気恥ずかしそうに、視線を伏せる。
 僅かに、その目元が赤い。

「でも…あたしと長崎屋の縁はとうに切れた事だから…」
「またそんなことを…!じゃあ兄さんは、私が他の奉公人を呼ぶように呼んでも、平気なの?」

 俯く顔を覗き込んで。
 眉根を寄せて、問う声に、どうしても詰るような色が滲んでしまう。
 松之助の瞳が、微かに揺れた。

「…それは…平、気だよ……それが正しい、形だもの」
「………っ」

 少し、寂しげに。
 微笑い告げられた言葉が、ずきり、胸を刺す。

「松之助」
「――――っ」

 態と、突き放すように。
 少し冷たい声音で、初めて、兄と呼ばずに名前を呼べば、はっきりと、松之助の瞳が、揺らいだ。
 傷ついたようなその瞳に。
 ずきり、痛みを伴って。
 自分の声は、先程の言葉と同じくらい、松之助の胸を刺したのだろうかと、ぼんやりと思う。
 きつく、眉根を寄せて。
 俯く松之助の、膝の上で握り締められた手に、そっと、一太郎は手を重ねる。
 包み込んだ、自分より大きな手は、震えていた。
 
「ほら、平気じゃ無い」

 こつり、額を合わせて。
 宥めるように苦く笑えば、松之助の唇が、微かに震えた。

「………っあたしは……」
「うん?」

 小さく、零された声に、耳を寄せる。

「随分、…贅沢になってしまったみたいだ……」

 困ったように眉根を寄せて。
 泣き出しそうな顔で笑うのを、そうっと、抱きすくめる。

「うんと、贅沢になってしまいなよ。…」

 何もかも、分からぬほどに。
 後戻りなど考えることすら、できないほどに。
 ただ、自分だけを、想って欲しい。

 きつくきつく、縋るように。
 抱きすくめる一太郎の耳元で、松之助が小さく、息をのんだ。