その夜は眠れない予感がした。
 別段、何があったわけでもないけれど。
 それでも、長い年月を過ごしていれば、妙に、胸がざわつき、眠れない夜がある。
 随分と居座り続けた長雨が、忘れていた過去を、不意に呼び覚ました所為かも知れぬ。
 それは今更、痛みを呼び込んだりはしないけれど。 

「おやすみ」
「ん。おやすみ」

 眠りの挨拶を交わすけれど。
 どうせ、眠れないことは知っている。
 良く利くと、他者から誉めそやされる自前の香も、自分には効かない。
 腕の中の、愛しい存在が、穏やかな寝息を立てる。
 その首筋に、背後から顔を埋めながら、ただじっと、夜の音を聞く。
 一つ、二つと、穏やかで愛しい呼吸音を数えてみても。
 置いていかれた夜は、無意味に長い。
 これが困ると、苦く、独り笑みを零した。

「佐助…?」

 不意に、寝返りを打ったと思ったら。
 そっと、ひどく優しい仕草で抱きこまれ、僅か、目を見開く。

「眠れないのかい?」

 問いかけても、応える声は無い。
 代わりにきゅっと、首筋に絡む腕に、力が篭った。

「佐助…?」

 顔を、覗き込めば、閉じていた眼が、ゆっくりと開く。
 絡んだ視線が、不意に、笑った。

「おやすみ」

 柔く、瞼に落とされたのは口付け。
 佐助の掌が、瞼を覆う。
 それはとても、温かく、優しくて。
 知らず、口元に笑みが浮かぶ。

「…おやすみ」

 眠りの挨拶を、交して。
 ゆっくりと、優しい真闇の中、瞼を閉じる。
 とくりとくり。
 肌に感じる愛しい鼓動を、ひとつふたつと、数えるうちに。
 いつの間にか、意識は深く、沈んでいた。


 眠れない夜はもう、何処にも在りはしなかった。