開け放った障子から吹き込む、緩やかな春の風。
心地良いそれに、知らず、目を細める。
鼻腔を擽る、真新しい木の匂いが、心地良かった。
「悪いねぇ」
言葉と共に、差し出される湯飲みを受け取りながら。
屏風のぞきは小さく、首を傾げた。
「守狐とも、中々逢えなくなっちまったし」
そまなそうに苦笑され、慌てて、視線を逸らす。
「べ、別に…。かまやしないさ」
確かに、屏風のぞきはこの離れに。
守狐は長崎屋と神の庭を行き来するようになったから。
以前のように四六時中一緒に居られる訳ではなくなったけれど。
それでも。
ちらり、視線を投げる。
「寂しいのは、アンタの方だろう」
伊三郎の、誰より大切にしていた愛しい人は、神の庭に行ってしまった。
それこそ、ひどく遠い場所ではないのか。
「そうだねぇ…。寂しくない、と言えば嘘になるが…」
伊三郎の瞳が、遠くを見つめるように、眇められる。
その眼は、ひどく優しい。
「おぎんはずっと、見守っていてくれるさ。…そして、きっとまた逢える」
今までのように。
続いた言葉に、屏風のぞきが小さく、笑みを零した。
伊三郎の節くれ立った指先が、碁石を握る。
じゃらり、散らばるそれを、二人で数えて。
「あたしが白か」
考えたのは一瞬で。
ぱちり、小気味良い音と共に、一手を打ち込む。
「こちらは随分と静かだから、暇じゃあないかい?」
鼻腔を掠めるのは、真新しい木の匂い。
慣れぬそれに、まだ躊躇うのか。
鳴家たちの姿は、まだ、見えない。
狐達も、殆どが社にその姿を隠していた。
「別に。静かで良いさね」
ぱちり、ぱちりと、小気味良い音が、続いたり途切れたり。
「旦那とこうやって碁を打つのも、茶を飲むのも、嫌いじゃあ、無いよ」
ぱしり。
一際良い音をさせて、打ち込むのは、会心の一手。
伊三郎が、小さく唸るのに、にやり、口の端を吊り上げる。
「そう、かい。…そりゃあ、良かった」
考え込むように、腕を組む様を満足げに眺めながら。
一口、茶を啜る。
程よい苦味が、舌に心地良い。
「旦那こそ、退屈なんじゃあ、ないかい?」
揶揄するように笑えば、伊三郎が器用に片眉を引き上げる。
「そうじゃない…と言えば嘘になるが…年寄りがいつまでも出張っているのもねぇ…」
言いながら、視線が流れるのは母屋の方。
今では仕事の殆どを、藤兵衛に任せてある。
「それに、藤兵衛は良くやってくれるし…」
ぱしり。
返された一手に、今度は屏風のぞきが、小さく呻いた。
思わず、湯飲みを盆に戻して、腕を組む。
「…そんなこと、ない…だろう…旦那が年寄りなら、世の中の人間皆年寄りになっちまう」
じっと、碁盤を睨みつけながら。
ぽつり、零した言葉に、ふっと、空気が揺れた気がして。
顔を上げれば、ひどく優しい視線と、ぶつかった。
「お前さんに褒められると嬉しいね」
微笑されかっと、頬が熱くなる。
慌てて碁笥に指先を突っ込んで、次の一手を返したは良いけれど。
苦し紛れに打ったそれは、己でも呆れるほどに、致命的だった。
「ち…っ」
思わず、漏れる舌打ち。
くつくつと、漏れる押し殺された笑い声が耳に煩い。
「いや、すまない」
必死に、笑い声を押し殺しながら言われても、余計に腹が立つだけだ。
睨み付ければ、伊三郎はようやっと、どうにかこうにか、笑いを引っ込めた。
「変わらないね」
「何が」
応える声に、棘が滲む。
勝負はもう、決まってしまっているから。
自分から、碁石を片付ける。
じゃらじゃらと、派手な音が、無音の部屋に響いた。
「変わらないね。お前は…」
そっと、頬に触れる温もりに、顔を上げれば、ひどく優しい瞳で、己を見つめる伊三郎がいて。
「私はこんなに…年老いてしまったと言うのに…」
その言葉は、やけに、胸に刺さった。
知らず、頬に添えられた手を、握り返していて。
初めて、屏風絵から抜け出たとき。
引かれ、握ったその手は、今は随分、固く強張って。
自分を見つめる目尻にも、深い皺が、刻まれていた。
「置き去りにされているのは…私かな…お前たちかな…?」
何か、応えようと思う。
けれど。
声が、喉に絡み付く。
「待ってる…よ」
ようやく、声にした言葉は、髄分と掠れていた。
「待ってるよ。…皆で、旦那を待っててやるよ」
伊三郎の眼が、驚いた様に、見開かれる。
その瞳を、見つめ返して。
口角を、吊り上げてみる。
いつもの、様に。
「待っててやるよ。…旦那は相当、寂しがりやらしいからね」
伊三郎の眼が、笑う。
その目元、深い皺が、刻まれているけれど。
その眼差しは、いつだって変わらなくて。
「ありがとうよ」
呟かれた言葉に、満足げに、笑ってみせる。
いつもの、様に。
「もうすぐ…」
伊三郎の視線が、また、母屋に流れる。
つられ、屏風のぞきも、視線をやった。
「おたえの子が、生まれてくる」
本当に、色々あったけれど。
どうにか無事、宿すことができた命。
「そうしたらまた、ついていてやっておくれ…」
微笑う眼は、ひどく、優しい。
「旦那の孫でおたえの子か…良いね。良い子になるだろうさ」
春の風が、頬を撫でる。
視界の端で、木蓮の花が、揺れた。
「こうやって、その子の囲碁の相手に、なってやっておくれよ」
じゃらり、派手な音が、無音の部屋に、響く。
白黒の石が、それぞれの碁笥に、戻されていく。
「あぁ、いいよ」
鼻腔を擽る、真新しい木の匂い。
伊三郎の眼が、不意に、微笑った。
「そうして、待っていておくれ」
その眼は、いつだって優しい色を湛えて。
屏風のぞきを、おたえを、皆を、見守っていた。
「…うん」
頷いた声は、いつもよりほんの少し、震えていた―。