「そりゃあひどい話ですね」
 眉根を寄せる伊三郎に、客の女は、顔をしかめながらに頷く。
「本当にひどい話ですよ。早く下手人がつかまればいいけれど」
 その話を傍らで聞きながら、仁吉は冷めた思いで、店表を掃いていた。

「物取りがあって子供を庇った父親が死んだらしいな」
 夜、どうやら今日はその話題で皆が持ちきりだったらしく、昼間の伊三郎と同じように眉根を寄せながら話す佐助に、
 仁吉はその子供の顔に、子供らしからぬ冷ややかな笑いを浮かべる。
「子供を庇って死んだって、後に残された子供の苦労を考えるといっそ殺されたほうがましだったんじゃないかね」
 その言葉に、佐助は困ったような苦笑を浮かべた。
「そんなんじゃないさ。親ってのは己の命に代えても子供を守ろうとするもんさね」
「…わからんね」
 一瞬、戸惑うような色を瞳に滲ませた後、吐き捨てるように言うと、さっさと布団に潜り込んでしまう仁吉。
 背中で佐助が、やはり困ったように笑う気配がした。
 

 微かな寝息を立て始めたその寝顔に、思わず漏れる苦笑。
 仁吉の本来の姿である白沢は、自然界の霊気の結晶。
 気が付いたらいつの間にか自分は生まれていて、気が付いたら育っていたと、以前仁吉の口から聞いた事がある。
 つまり、大師の式として生を受け、大師の手で育てられた自分と違い、仁吉は親の温もりを知らない。
 妖の中では、珍しくないことであったが、これから先一太郎の守りとして過ごしていくに当たっては、少々支障がある。
 現に、直に人間達の情に触れる今の生活では、先程のように戸惑うことも多いようだった。
 それは、仁吉自身が、今まで経験したことの無いものだろうから。
 けれど、きっと仁吉なら大丈夫だと、根拠の無い自信が佐助にはあった。
 本人は決して認めないだろうけれど、その性根が本当はひどく優しいことを、佐助は知っているから。
 微かな微笑を一つ零して、佐助は己も布団に潜り込んだ。


「ありがとうございますっ」
 不意に響いた大きな声に、何気なく視線をやると、店先で、見知らぬ男に頭を下げられ、困惑する仁吉の姿があった。
「何があったんだ?」
 溜息を吐きながら疲れたような表情で、戻ってきた仁吉に訪ねると、子供の病で、薬を買いたいが金子が足りぬと言う父親に、破格の値段で売ってやったのだと言う。
 病弱な若だんなの世話をしている自分にも分かる心情だったと。
 これで良くなれば良いがと、僅かに眉根を寄せる仁吉に、佐助はそっと笑みを零す。
「で?若だんなの調子は?」
「熱も完全に引いたみたいだよ。朝からずっと調子が良いらしい」
 先程などは三春屋に出かけようとするのを押し留めるほどだったと言うと、仁吉は安堵の笑みを見せた。
 その目に滲む色は、ひどく優しい。
 数年前、子を庇って死んだ父親の心情など分からないと言ったあの冷笑は、今はもう浮かぶことはないだろう。
 佐助の言葉に戸惑うような表情を見せた、あの頃の仁吉は、もう居ない。
 一太郎の世話をするうちに、その瞳が徐々に柔らかな光を湛えることが増えたのを、佐助は傍で見てきたから。
「何笑ってんだい?」
 どうやら、知らず笑みを浮かべていたらしく、怪訝そうに覗き込んでくる。
「いやぁ…アンタも成長したなと思ってね」
「は?」
 馬鹿にしてるのかと眉根を寄せる仁吉に、けらけらと笑う。
 仕事があるからと、廻船問屋の方に戻りながら、佐助はまた、笑みを零した。

「随分機嫌が良いようですな」
 人気の無い蔵の横、不意に掛けられた言葉に、驚いて振り返ると、懐かしい顔がそこにあった。
「おぉ…随分久しいですね…」
 佐助の言葉に、目の前の老人は目を細めて笑う。
 午後の日に照らされたその深い皺を刻んだ顔に、柔和な笑みが浮かぶ。
「皮衣様から一太郎殿に薬を預かってきたんだが…先の話じゃあもう用なしかね」
 苦笑と共に差し出された薬を受け取りながら、またの機会にと請け負う事に悲しさを覚える。
 それを察した老人が、また、苦笑した。
 老人の本性は皮衣に古くから使える妖狐だ。
 荼枳尼天の庭に居た頃、佐助も何度か言葉を交わしたことがある。
「どうぞ離れの方に…お茶を用意しますんで…」
「いや、良いよ。どうせすぐ帰るんでね」
 やんわりと佐助の勧めを断り、年寄りには人間の世界は忙しなさ過ぎると、笑う。
「いやはや…久しぶりに白沢殿の顔を見て驚いた…随分お優しい表情をされるようになりましたな」
 薬種問屋の方を見つめながら、しみじみとした感で言う老人に、佐助は深く頷く。
「えぇ…。それもこれも若だんなのお陰ですよ」
 佐助が目を細めて笑うと、老人はひょいと器用に片眉を上げて、佐助を見遣る。
「それだけかな?」
「え…?」
 疑問符を浮かべる佐助に、老人は微笑む。
 背中の蔵の白壁に、日が反射して、眩しい。
「白沢殿は、皮衣様の前以外は、貴方が来るまで微笑一つ浮かべなかった。いつも近寄り難いような冷たい色をした目をされておったよ」
 その言葉に、思わず、目を見開く。
 記憶の中の仁吉は、白沢はいつだって、優しげな色をその瞳の奥に滲ませていた。
「そんなことは…」
「無いはずでしょう。貴方の記憶の中では」
 それは当然だと、老人は言う。
 深い皺の奥の目が、懐かしむように細められる。
「白沢殿は貴方が来られてから、ひどく優しい色をした目をされるようになった。貴方が、白沢殿を変えられたんですよ」
 俄かには、信じられない言葉だった。
 ただ驚きに目を見開く佐助に、老人は微笑を零す。
「あぁ…お仕事中でしたな。それでは私はこれで。白沢殿にも宜しくお伝え下さい」
「あ…態々ありがとうございました」
 深々と、その細く筋張った背を曲げて礼をすると、老人は影の中にその姿を消した。
 その背を見送りながら、今の言葉を反芻する。
「近寄りがたい…?」
 信じられなかった。
 いつだって、仁吉の自分を見る目は、奥底に優しさが滲んでいたのに。
 じっと、足元に視線を落とす。
 じゃりっと、草履の下で小石が小さく、音を立てる。
「佐助、こんなところで何やってんだい。仕事は?」
 唐突に掛けられた声に顔を上げると、生薬の入った袋を持った仁吉が、訝しげにこちらを見ていた。
 そう言えばそろそろ、若だんなの薬の時間だと、思い至る。
「若だんななら熱も引いたんだろう?心配ないよ」
 一太郎の事が気に掛かってぼんやりしていたのかと、笑うその目は、やはり優しい。
「あぁ」
 頷く佐助の顔は、やはり、優しかった。
 過去がどうであれ、今の仁吉はひどく優しい。
 それで良いと、佐助は思う。
 先程使いの老人から貰った薬を手渡す。
 一瞬、微かに触れ合った手は、温かな温もりを帯びていた―。