昼間は華やかさを誇る京の大通りも、さすがに夜はひっそりと暗い。
静けさの中、二人で歩きながら、犬神は山では見られなかった異形の者の数の多さに、目を見張った。
山に入ってから久しく、すっかり忘れていた者達の存在。
「昼は人で賑わって、夜は妖で賑わって…京の町はせわしないねぇ・・・」
にこにこと笑いながら言う大師。
けれど、剣呑な目を向けてくる輩も、少なくは無いのに、犬神は気付いていた。
「大師様・・・。随分良くないのも居るみたいですけど・・・」
困惑気味に見上げると、やはり穏やかな微笑が返ってくる。
「良く見てごらん。良くない輩が居るというけどね。手を出してくるような輩はいるかい?」
そう、居ないのだ。
不思議と皆、自分にも、人である大師にも、近づこうとしない。
「お前の力を感じ取ってるからだよ。皆、それが怖くて近づけない」
もしそれが本当なら、大師の力だって感じ取っているはずだと思い当たって、犬神は納得した。
大師の力は強い。
並みの妖などよりずっと。
そう、犬神である自分よりも。
「おやぁ空海じゃないか」
不意に闇から響いた声に、犬神は驚いて振り返る。
さっとその背に、大師を庇った。
「何やつっ!」
鋭い視線を向けながら、叫ぶ。
少年特有の、少し掠れた声が、大通り響いた。
「これはこれは・・・随分変わった稚児を連れて・・・相変わらず変わった趣味だねぇ・・・」
ころころと、涼やかな笑い声とともに姿を現したのは、菖蒲襲の桂の裾捌きも艶やかな、品の良い女だった。
その身なりから、身分の高さが伺える。
それ故に、その奇異さが目立った。
貴族の女が、供も連れずにこんな夜中に出歩くはずが無い。
牙を剥く犬神の体が、不意に浮遊感に包まれた。
視界が急に、高くなる。
体を包む温かさに、自分が大師に抱上げられたのだと気付くのに、寸の間、掛かった。
「大師様っ」
気色ばむ犬神の背を、大師は宥める様に撫でる。
その顔には相変わらず柔和な笑み。
「これはこれは久しいねぇ・・・そちらこそ宮仕えの姫君がこんな夜中に・・・おや、そちらも変わったお供をお連れじゃないか」
「それにこの子は稚児ではないよ」と、苦笑しながら付け足す大師の視線の先には、犬神よりも幾分歳嵩の少年の姿があった。
女の傍に、まるで守りの様に添うその少年は、やはり、人ではない。
月よりも白い銀糸の髪を夜風の嬲るままにさせ、じっとこちらを睨み付ける双眸は、琥珀色の光を湛えていた。
その体から迸る気は、自分と同等、それ以上かもしれないと犬神の背に、緊張が走る。
それは向こうも同じのようで、一瞬、張り詰めた空気が二人の間を行きかう。
「大丈夫だよ。あの人は私の知り合いでね・・」
腕の中の犬神の体が、強張るのを察した大師が、そっと囁く。
「これ白沢、そんなに睨むでないよ」
女に窘められた、白沢と呼ばれた少年がようやく、ほんの僅かにその視線を和らげた。
綺麗な顔立ちだが、随分と冷たい目をした奴だな・・・と犬神はぼんやりと思う。
「今日は月が綺麗だからねぇ・・・ちょっと抜け出てきたのさ」
紅を掃いた、形の良い唇が、綺麗な笑みを作る。
「ああ同じだ。私も月に誘われてね・・・この子も退屈していたし」
「そんなことありませんっ」
唐突に水を向けられ、犬神は慌てて首を振って否定した。
その様を見ていた女が、楽しげに笑う。
「まぁまぁ随分楽しそうじゃないか空海」
「あなたは?宮仕えは大変と聞くけれど?」
「そりゃあねぇ・・・でも人間は相変わらず面白いよ」
「ねぇ?」と、傍らの少年に話を振ると、少年はそれには頷かず、空を見上げ、口を開いた。
「かわ・・・吉野どの・・・そろそろ夜が明け始めます。・・・早く戻られないと・・・」
何か言いかけて、思い出したように言い直したその言葉に、女は、吉野ははたと気付いたように、慌てて踵を返す。
「あら、それは大変だ。じゃあね空海。また機会があれば」
「はいはい。また」
大師が言い終わらぬ内に、二人の影は、闇に消えた。
「さて、私達も帰ろうか・・・」
「はい」
頷き、降ろして貰うと、再びその背に、大師を背負う。
今日の町を、一陣の風が吹きぬけた―。
「やれやれ、随分疲れさせてしまったね」
苦笑しながら、大師は腕の中の子犬を褥に寝かすと、大桂を掛けてやる。
夜通し歩き回った所為か、犬神は寺に付いた途端、犬の姿に戻ってしまった。
情けなさそうに耳を垂れる子犬を抱上げて、部屋まで運んだ頃には、腕の中で小さな寝息が立てられていた。
「今日はゆっくり休むといい」
自分の頭を優しく撫でるその温もりに、無意識の内に擦り寄りながら、あの銀糸の髪が、犬神の眠りの闇の中、揺れる。
自分を見据えた琥珀色の光も、やがて、すべてが眠りの闇に解けて消えていった―。
犬神と白沢。
二人が再び出会うのは、まだ随分先のことだった―。