その、耳に馴染んだ足音を聞きつけて。

「兄さん」

 廊下に顔を出せば、少し、驚いた様に目を見開いた後、ふわり、向けられる笑い顔。
 手招いて、引き入れて。
 まるで、久しく逢っていなかったかのように。
 ぎゅうと、少し背伸びをして、その首筋を抱き寄せる。

「今日は、遅かったんだね」

 疲れているのではないのかと、気遣うように見上げれば、いつもなら困った様に、眉尻を下げて。
 少し気恥ずかしそうに、窘める様な視線とぶつかるのに。
 松之助はふわり、また、笑うだけ。
 優しい手が、頭を撫でてくる。

「少し、平治さんに捕まってしまって…」

 口にされた名前は、松之助の仕事仲間。
 確か、酒好きで有名な手代だったはずだと、記憶の底から、引きずり出したとき。
 ふうわり、鼻腔を掠める、甘い匂い。

「お酒、飲んで来たの?」

 小首を傾げて問いかければ、僅かな苦笑いと共に、頷かれた。
 そう言えば、目元が、微かに赤い。

「大丈夫?」
 
 松之助はあまり酒に強いほうではなかったはずだと、心配に眉根を寄せて問いかければ、苦笑交じりに、大丈夫だと告げられる。
 けれど、その眼は潤んでいて。
 吐き出される息は、微かに荒く、熱い。

「無理しなくて、良いよ?」

 水差しから一杯、水を注いで差し出しながら。
 うっすらと朱の差した顔を覗きこむ。

「本当に、大丈夫だから…」

 少し、困った様に笑みを向けられ、ようやっと、一太郎も笑った。

「そっか。…良かった」

 身体が辛いほどでは、ないのだろうと、安堵の息を吐いて。
 自分は、温かい茶を、啜る。
 大丈夫。と、言うくせに。
 その眼は時々、ぼんやりと焦点を失っていて。
 常とは違う、少し危ういその様に、小さく、苦笑を漏らす。

「にい、さん…?」

 声が微かに、上擦ってしまった。
 背中から、まるで抱きすくめるように。
 回され、腹の上で組まれたのは、松之助の両の手。
 首筋に顔を埋められて。
 掛かる吐息に、とくり、胸が騒ぐ。
 
「うん…?」

 振り仰げば、向けられるのは柔らかな笑い顔。
 小首を傾げて、見つめられて。
 心の臓が煩い。

「あ…酔ってる…?」
「う…ん…大丈夫」

 ふうわりと笑いながら。
 ひどく優しい手つきで、髪を梳いてくる。  
 松之助から、こんな風に触れてくることなんて、滅多にない。
 と言うよりむしろ、初めてで。
 どうすれば良いかすら分からず、ただ、酔ってもないのに熱い頬を持余す。

「一太郎…」
「―――っ」

 ひどく甘い声音で、名前を呼ばれて。
 きゅっと、僅かに抱きすくめる手に、力を込められたと思ったら。
 抱え上げられたのは、松之助の膝の上。
 常からは考えられない己の状況に。
 もう、眩暈がするほど。

「兄さん…っ」

 これ以上は堪えきれないと、殆ど縋る様に名前を呼べば。

「うん?」

 向けられるのは、やはり、ふうわりとした柔い笑み。
 ひどく、幸せそうなそれに、結局、困った様に眉尻を下げるだけで。
 何も言えずに黙り込む。
 
「一太郎…」
「な、に…?」

 首筋に顔を埋められて、かかる吐息に、耳元で響くその常より甘い声音に、ざわり、背筋がざわつく。
 振り仰ぐことすら出来ずに、応える声が、自分でも分かるほど、上擦っていた。

「だいすき」
「………っ」

 ふうわり、向けられたのは柔い笑み。
 思わず、身を捩って振り仰げば、やはり、そこにあるのは、ひどく幸せそうな笑い顔。
 相変わらず、優しい手つきで髪を梳いてくるのに、小さく、溜息を吐いて。
 とん、と、背中の温もりに、身を預ける。

「素面でも…これぐらいしてくれたら良いのに…」

 気恥ずかしさを誤魔化すように、ぽつり、零す。
 それでも、もう耳まで赤くなっているであろうことは、自分でも分かっていた。

「なに?」

 聞き取れなかったと、唐突に顔を覗きこまれて。
 近すぎる距離に、思わず、目を見開く。
 己を見つめる、少し焦点の定まらない、とろんとした眼に、漏らすのは苦笑。
 ちゅっと、随分可愛らしい音を立てて。
 口付ければ、一瞬のそれを、理解できなかったのか。
 松之助の瞳が、不思議そうに何度か瞬く。
 そんな、常とは違い、少し危ういような様に、一太郎からくすり、笑みが漏れる。
 腕の中で、身体を入れ替えて、向き直る。
 松之助の首筋に、腕を絡めて。

「私も、兄さんがすきだよ」

 笑い告げれば、松之助が、ひどく嬉しそうに、笑ってくれた。