―私だけを見て。私だけの声を聞いて…―
昏い、そう、まるで蔵の地下のような所。
誰もいない。
私と兄さん以外、誰も…。
「一太郎…」
兄さんの声だけが、響く。
私の名だけを、呼ぶ。
私だけを見て。
私だけの声を聞いて。
私だけに、微笑ってくれる。
「兄さん…」
私だけに触れる。
私だけが、触れる。
「兄さん…」
感じるのは、言い様の無い安堵感。
だって此処は、私だけしか入ることの出来ない場所だから。
私だけが、此処の鍵を持っていて。
私だけが、兄さんに触れることが出来る。
私だけが、兄さんを…。
「―――っ」
己を包む闇に、一瞬、夢と現が分からなくなる。
「若だんな?どうした、気分が悪いのかい?」
低い声に、目を凝らせば、金屏風の中から屏風のぞきが、心配そうにこちらを見つめていた。
思わず、ほっと安堵する。
あれは、夢だったのだ。
あんな昏い、どろりと澱んだものが、現のわけが無い。
私がそんなこと、望むわけが無い。
「何でも…何でもないよ。…少し夢を見ていたみたいだ」
「そうかい。兄やさん方を呼ぼうか?」
尚も未だ、心配そうな視線を向けてくるから。
思わず、苦笑が漏れる。
「大丈夫だよ」
そう、本当に大丈夫。
あれは夢だもの。
―嗚呼だけど…―
何だろう。
この胸に湧くどろりとした感情は…。
ついさっき、荷が入ったばかりなのか。
廻船問屋の方は、随分と人の出入りが激しかった。
「おや、若だんな」
はっとして、顔を上げる。
微笑う兄さんの顔が、あんな夢を見たばかりだからか、真っ直ぐに見れない。
「薬種の荷なら、ついさっき着きましたよ」
「あ…うん」
微笑わなきゃ。
不自然に思われてしまうよ。
「松之助さん、ちょっとこれ確認してもらえるかい?」
「あ、はい」
馴染みの人足が、兄さんの肩を、叩く。
兄さんの視線が、そちらへ移る。
―触るな―
はっとする。
今、私は何を思った?
「それなら若だんな、薬種問屋の方へ運びましょうか?」
急に振り向かれて、ぎくりとする。
日に焼けた厳つい顔が、笑う。
「え?あ、うん。そうしてくれるかな…ありがとう」
どうしてだろう。
微笑うのに、何故だかひどく、苦労した。
どろりと澱んだ何かが、胸を埋める。
これ以上、ここにいちゃあ、いけない。
何故だか分からないけど、そんな気がして。
「それじゃあ、頼んだよ」
やっと、それだけ言い残して。
逃げるように、薬種問屋へと戻った。
―私だけを見て。私だけの声を聞いて…―
昏い、そう、まるで蔵の地下のような所。
誰もいない。
私と兄さん以外、誰も…。
「兄さん…」
私の声だけが、響く。
私だけが、兄さんを、呼ぶ。
「一太郎…」
私だけを見て。
私だけの声を聞いて。
私だけに、微笑ってくれる。
「一太郎…」
私だけに触れる。
私だけが、触れる。
「一太郎…」
感じるのは、言い様の無い安堵感。
だって此処は、私だけしか入ることの出来ない場所だから。
私だけが、此処の鍵を持っていて。
私だけが、兄さんに触れることが出来る。
私だけが、兄さんの全てになれる…。
「………」
今度は、目を開けなくても分かる。
また、あの夢だ。
どろりと、澱んだ感情が、胸に蓄積していく。
夢の中の私は、何をしていた…?
―兄さんを…―
閉じ込めていたんだろう。
私だけにしか逢えぬ様に。
それは、とても恐ろしいことのはずなのに。
なのに。
どうしてだろう。
今の私は、そうは思えない。
―むしろ…―
そっと、目を開く。
薄闇の中、じっと、見据えるのは虚空。
今何時かなんて分からないけど。
痛いほどの静けさが、夜も深いことを教えてくれた。
その、無音の闇の中、さっきの夢が、浮かぶ。
私だけを見て。
私だけの声を聞いて。
私の名だけを呼んで。
私だけが呼んで。
私だけに触れて。
私だけが触れて。
私だけが、兄さんの全てになれる。
―なんて…―
素晴らしい。
そう思ってしまう自分を、私は止められる自信が無かった。
そうあれは…私の望み。
それがそのまま、映し出された、夢。
恐ろしい。
己自身が。
固く、目を閉じる。
昏い夢を、振り払うように。
「兄さん…」
思わず、呟いていた。
小さく漏れた声は、自分でも笑ってしまうくらい、縋るような色が滲んでいた―。
雨音だけが、静かに響く。
今朝早くから降り出したそれは、もう日暮れから随分立つというのに、一向に止む気配は無い。
ふんわりと、鼻腔を掠めるのは、白梅。
今が盛りだから、もしかしたら、この雨で随分散ってしまうかもしれない。
「雨…止まないね…」
ぽつり、零した言葉に、兄さんが苦笑を漏らす。
その目に映るのは、今は、私だけ。
そのことに、何だかとても、安堵した。
「ねぇ兄さん…」
それでも、朝が来れば、兄さんはまた、戻っていくんだろう。
それが当たり前だもの。
そうしらたまた、兄さんの意識は、私だけのものじゃあなくなるんだ。
また、誰かの名を呼んで、触れて、笑うんだろう。
そう、考えただけで、ぞっとする。
昏い昏い、どろりとした澱んだ感情が、胸を満たす。
「うん?」
小首を傾げた眼が、微笑う。
その眼を、行灯の灯りが、透かしていた。
それは、とても優しい色を浮かべていて。
その優しい色に、吐き出したくなる。
この感情全てを。
「一太郎…?」
膝立ちになって、その頬に、手を伸ばす。
いつも、私が見上げていたから。
兄さんに見上げられるというのは、何だか妙な心地がするなと、ぼんやりと思う。
「私だけを見ていてくれるように。私だけが、兄さんを独り占めできるように…」
ぽつり、ぽつり、零す自分の声は、なんだか随分、虚ろなそれだった。
きっと、同じような表情をしているんだろうけど。
私の顔は、今はきっと、兄さんからは影になって見えちゃあいないだろう。
「一太郎…?」
怪訝そうな声には、応えずに。
頬から顎、頸へと、指を這わせる。
両の手指を、頸に絡ませれば、とくり、とくりと、指先に兄さんの脈を感じられて。
何だか少し、嬉しかった。
「閉じ込めてしまいたいよ。…誰にも逢えぬ様に…」
ほんの少し、指先に力を込める。
兄さんが微かに、息を呑んだのが、喉の動きで分かった。
一層強く、指先を打つ脈拍。
その首筋に、顔を埋める。
雨音が、煩い。
「苦しいんだ…誰かが兄さんに触れる度、兄さんが誰かを見る度…苦しいんだよ…」
声が、上擦っていた。
いつの間にか、頸に絡んでいた指先は、縋るように、兄さんの着物を握り締めていて。
「一太郎が望むなら…」
背を、宥めるように優しく、撫でてくれながら、兄さんが微笑いながら、零したのが気配で分かった。
思わず、顔を上げれば、やはり、ひどく優しく、微笑う視線と、ぶつかる。
「一太郎が…救ってくれなかったなら、亡くしていたかも知れない命だもの…。一太郎が望むなら…」
嗚呼、そうじゃあない。
そんなことを、言わせたいんじゃあ無いんだよ。
顔が、歪むのが自分でも分かる。
ぎゅっと、着物を握る手指に、力が篭る。
「でも、それで本当に…一太郎は笑ってくれるかい?」
その言葉に、はっとする。
兄さんの手が、そっと、私のそれを、包み込む。
その手は、ひどく温かくて。
「それは…一太郎自身を、苦しめることにならないかい?」
優しい声が、ゆっくりと、私の中に溶け入ってくる。
どろりと、澱んだ何かが、溶け消えていく。
「心配しなくても…ねぇ一太郎」
きゅっと、握る手に、力が込められる。
その手はいつだって、そう、いつだって温かくて。
ふっと、向けられるのは、ひどく優しい、微笑。
それはいつだって、私だけに、向けられていたもので。
「あたしの心はね、ずぅっとずぅっと…一太郎を誰より愛しいと思っているよ」
はたり。
兄さんの手に、雫が落ちる。
私の頬を、涙が伝う。
嗚呼、こんなにも簡単なことだったんだ。
こんな、たった一言で、苦しいものが全部、溶けて消えちまうような。
「兄さん…」
きつくきつく、縋りつく。
静かに、零れる涙が、兄さんの着物に、染みていく。
優しい手が、何度も何度も、背中を撫でてくれた。
「大丈夫だよ。一太郎」
優しい声はいつだって、私だけを呼んでくれていたのに。
優しい手はいつだって、私だけに触れてくれていたのに。
優しい眼差しはいつだって、私だけを…。
―嗚呼…―
気付いたら、こんなにも簡単なことだったんだね。
「兄さん…」
顔を上げ、向けるのは照れ笑い。
やっぱり、優しく微笑う眼と、ぶつかる。
そっと、重ねるのは唇。
不意に、揺らいだ行灯の陰が、二人の姿を隠してくれた―。
雨音はいつの間にか、止んでいた―。