「兄さんっ」
呼ばれ、振り向くと、店奥から佐助と連れ立った一太郎が顔を覗かせていた。
自分に向けられる屈託のない笑顔に、つられ、笑みが零れる。
「若だんな。どうしたんですか?」
「あのね、さっき三春屋で菓子を買ってきたから八つ時には一緒に食べようと思って」
駆け寄り、尋ねるとにこにこと自分を見上げながら告げる一太郎に、仕事中に抜けていいものかと、
店先の番頭に目をやれば、笑いながら『行って来な』と、視線で告げられる。
一太郎の言葉には、この店のものは皆甘い。
その様子を見て取った一太郎は、ひどく嬉しそうに笑った。
「じゃあまた後で。離れの方に来てね」
佐助と連れ立って、薬種問屋の方へ戻っていく一太郎を見送るその背が、強張った。
剣のある声が、嫌でも耳に入ってきたからだ。
「巧く取り入ったもんだね」
その声は、聞き覚えのあるもので。
「そりゃ必死にもなるわさ。若だんなに気に入られなきゃあ、身の置き所がないんだもの」
厭らしい笑いを引きずる言葉に、つっと背筋に冷たい汗が流れる。
「妾の子が」
振り返ることすら、出来ずに立ちすくむ。
皆が皆、自分を受け入れてくれていないことは知っている。
事情を知っている古株の奉公人の中にも…。
けれど知っているのと、こうして直にその声が耳に入ってくるのとは、受ける衝撃が違う。
着物の袂を、無意識の内にきゅっと握りしめる。
「古いだけでいつまでも居座ってる無用の長物よりも、松助介さんはよっぽど良くやってくれてるよっ!」
不意にあたりに響いた低く、鋭い叱責に驚いて振り返ると、いつもは穏やかな笑みを浮かべている番頭が、
珍しくその目を吊り上げていた。
「無駄口叩いてる暇があったらとっとと働けっこのただ飯食いっ」
仁王立ちで叱責を飛ばす番頭に、古参たちは何事かぶつぶつと呟きながら、散り散りに逃げ出して行く。
その後姿を剣呑な目で睨み付けていた番頭が、驚いたような目で自分を見つめる松之助に気づき、
すまなそうに眉尻を下げた。
「自分が仕事が出来ないもんだから僻んでるんだよ。口笠無い連中もいるがね…どうか気にしないでおくれ」
「い、いや・・・ありがとうございます」
慌てて頭を下げる松之助に、番頭はふっと笑みを零す。
「一太郎ぼっちゃんはあんたが来てから一層明るくなられた・・・感謝してるよ」
「それにあんたはよくやってくれるしね」と、付けたす番頭に、松之助は自分が受け入れられていることを感じ、
先程までの冷えた心が、温まるのを感じる。
「松之助さんは若だんながずっと会いたがってた人ですからね」
不意に背中から掛けられた言葉に驚いて振り返ると、いつの間に帰って来たのか、佐助が笑いながら立っていた。
「箱根の折には本当によく世話をしてくれたし」
その言葉に、松之助は照れたように笑う。
あの一軒以来、この手代二人も、松之助のことを受け入れてくれたらしく、言葉を交わす機会も増えてきた。
「さぁ八つ時にはちょっと早いけどね、今日は暇だし、若だんなのところに行って差し上げな」
そう言って背中を押してくる番頭に、軽く頭を下げて、佐助と二人、連れ立って離れへと向かう。
「兄さんっ早かったんだね」
離れの部屋から嬉しそうに駆け寄ってくる一太郎に、松之助は自分の居場所は、やはり此処だと思った。
自分を必要としてくれる限り、この笑顔の傍にいたいと、強く思う。
目の前で美味そうに団子を頬張る一太郎に、松之助は己の心に湧き上がってくる暖かい感情に、
そっと微笑した―。
開け放たれた障子から零れ入る、暖かな午後の陽光が、皆の笑い顔を照らしていた―。