ざあざあと、絶え間なく降り注ぐ雨音が、無音の部屋を、埋める。
 雨戸を立てて、障子を閉めて。
 それでもなお、部屋の中に満ち、肌に纏わりつく湿気は、息苦しいほど。

「仁吉さん…」

 珍しく、力無く呼びかけてくる声に、一太郎の寝間の支度を整える手を止めて、振り返れば、華やかな屏風とは正反対の、胡乱げな眼が、見上げてきた。
 その白い頬は、血の気の失せた今、いっそ、青白い。

「何だい」

 大方、察しはつくけれど。
 態と、素知らぬふりで、再び、背を向ける。

「………っ」

 背後で、微かな衣擦れの音がして。
 途端に身に纏わりつく湿気に、息を詰めるのが、気配でわかる。
 眩暈にでも、襲われたのか。
 どさり、重い音を立てて、屏風のぞきが、畳に膝をつく。

「あぁ…辛い…」

 独り、呟くように言葉を零す声音は、本当に辛そうで。
 何をやってるんだと、顔を覗き込んだ途端。
 唐突に、伸びてきた腕に、首筋を引き寄せられた。

「…ん…っ」

 寄せられる唇に、差し込まれた舌を、きつくきつく、吸い上げてやれば、鼻に掛った吐息が、屏風のぞきから、漏れる。
 差し出される舌に、応えながら。
 送り込むのは、己の妖気。
 常より、ひんやりとした細い腕が、仁吉の首筋に、絡む。

「ふ…ぁ…」

 吐息を零す、その目元に、ゆっくりと血の気が戻り、ほのかに色づくのを見届けて。
 唐突に、唇を離せば、大妖の気を分けて貰って、人心地がついたのか、畳に座りこんだ屏風のぞきが、大きく、息を吐いた。

「…助かった…」

 呟やく様に零された言葉に、軽く、鼻を鳴らす。
 先程のそれとは違い、はっきりと光の宿った眼が、仁吉を捉えた。

「辛いのは分かってるんだから、助けてくれたっていいじゃないか」

 「どうせ大して減るもんでなし」と続く言葉に、仁吉は器用に片眉を引き上げ、軽く、膝頭で屏風のぞきの後ろ頭を蹴りつける。

「助けて貰っといて何だいその言い草は」
「は…っあんただって良い思いしたろう」

 形の良いを釣り上げて、生意気に笑う付藻神。 
 舌を出して思わせぶりに流し眼を投げてくる様は、確かに、艶を孕んでいるけれど。
 
「あの程度で、大きな顔されてもねぇ…」

 にいこりと、人好きのする笑みを浮かべて。
 逃れるより早く、指先で屏風のぞきの頤を、捉える。
 生意気な笑い顔が、ひきつって。
 近すぎる距離に、瞳に怯えの色が、滲みだす。
 その様に、仁吉は満足げに、口角を釣り上げた。

「足りないだろう。まだ…」

 ついと、明確な意図を滲ませて、首筋から鎖骨へと、指先を這わす。
 応えるように、震える身体に、仁吉は小さく、笑みを零した。

「い、いや…もう…」

 十分だと、逃れるように身を捩るのを畳に引き倒して乱暴に阻む。

「痛ぅ…っ」

 背を強く打ちつけたのか、痛みに、息を詰めるその襟首を引きつかんで。
 吐息が掛かるほどに近く、顔を寄せる。

「足りないんだよ。…あたしが」

 耳元、低く囁き落とせば、屏風のぞきの背が、びくりと跳ねた。
 震える目で、見上げてくるから。
 にやりと、口角を釣り上げて、底意地悪い笑みを、投げかけてやる。

「だ…っ」

 不意に、仁吉の耳が、廊下を渡る足音を聞きつけたから。 
 軽く、勢いをつけて、掴んでいた手を、離す。
 殆ど馬乗りになっていた、屏風のぞきの上から、退いた時。
 からり、開いた障子から、佐助と連れ立った、湯上りの一太郎が、顔を覗かせた。

「若だんな、ちょいとお借りしますよ」
「ひ…っちょ、離しなよっ!」

 離れの主人が、部屋に入ってくるのと入れ違いに。
 ひょいと、暴れる市松模様を小脇に抱えて、部屋を出る。

「え?…あ…」

 唐突すぎる出来事に、止める間もなく、見送る一太郎に、佐助が小さく、苦笑をもらしていた。



 数刻後。
 「こんなことなら、守狐に分けて貰えばよかった」と、力無く呟いた市松模様に、仁吉の片眉が跳ね上がって。
 結局、翌朝には瞼を腫らした屏風絵が、離れの寝間に、飾られた。