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熱い暑い日差が、項を焼く。
荷運びの最中、佐助はふと、立ち止まって空を仰ぎ見た。
手拭越しにかざした手の向こう、白い太陽はただ眩しくて。
滲む汗を拭って、再び歩き出す。
草履越しに伝わる熱に、辟易と零しそうになった溜め息の変わりに、汗が胸元を流れた。
その、歩き出したばかりの足が、ゆらりと立ち上る陽炎の向こう、見慣れた影を見つけ、立ち止まる。
「仁吉っ」
振り返った、日に焼けることを知らない白い顔は、この炎天下の中、汗一つ流さず涼しげで。
走り寄れば、微か、頬を撫でる冷たい風。
「お前ずるいよ。誰かに悟られたらどうすんだい」
言いながら、涼しい風を纏う仁吉を詰れば、口角を吊り上げ、にやりと笑われただけだった。
「荷運びかい?」
「あぁ」
二人、並んで歩きながら、それでも、仁吉が送ってくれる涼やかな風に、佐助はほっと、息を吐く。
その足がまた、止まった。
「佐助…?」
仁吉の怪訝そうな声が、傍らで上がる。
それでも、視線は一点に据えられたままで。
佐助の視線を追いかけた仁吉の眉根が、つっと寄せられた。
ゆらぐ陽炎から、少し離れた、薄昏い影の差す細小路。
「……」
無言のまま、それに歩み寄る佐助を、仁吉は止めはしなかった。
佐助の背中から、覗き込めば、死んでいるかと思ったそれは、小さく、息を吐いていて。
佐助の瞳に、安堵の色が浮かんだのを、仁吉は見逃しはしなかった。
「佐助…」
窘めるように名を呼べば、分かっていると言いたげに、佐助が頷く。
伸ばされた指先は、それに触れることなく、中空で止まり、引っ込められる。
いっそ哀しげな程に張り詰めた横顔に、仁吉は小さく、溜息を吐いた。
「もしかしたら、誰か拾ってくれるかもしれないよ」
それは、自分でも限りなく低いと思う可能性。
「うん…」
低く、頷く佐助は、けれど、屈み込んだまま、顔すら上げる気配は無くて。
蒸す様な熱気に覆われた昏い路地に、落ちる沈黙。
小さな小さな吐息だけが、やたらと耳について。
仁吉はもう一度、溜息を吐いて、どこか諦めたように、口を開いた。
「もしかしたら…お客さんで誰か飼ってくれる人もいるかもしれない…」
その言葉に、佐助の顔が、上がる。
仁吉は微かに、その口の端、苦笑を乗せた。
「とっとと仕事を終わらせようじゃあないか」
「あぁ」
強く、頷いて、佐助が立ち上がる。
見えた希望に、繋ぎたいと願う色が、その瞳の奥底、見て取れて。
「待ってなよ…」
小さな佐助の呼びかけに、応えるように、それは、仔猫は、初めて、か細いけれど、にゃあと鳴いた。
引き止めようとして来る女を、どうにかこうにか、当たり障りのないように振り切って。
人の波を縫うようにして、足早に歩く。
仁吉はその眉間に深く深く皺を刻んでいた。
ゆらぐ、陽炎の向こう、それは先程と変わらず、薄昏い影が差し込んでいて。
行き掛けに、佐助が見つけた仔猫は、その小さな命は、もう長くはないだろうと、仁吉は思っていた。
内臓が悪いのだろう。
その小さな腹は、不自然に膨らんでいたのに、仁吉は気付いていた。
―佐助は…気付いていたのかね…―
耳の奥、蘇るのは奇妙な音を立てる呼吸音。
きっと、あれはすぐに死んでしまう。
その死はきっと、佐助の心を痛ませる。
―佐助は誰より優しいから…―
拾って帰れば、一太郎も悲しむだろう。
―だったら、あたしが終わらせてやろうじゃないか…―
今此処で、佐助が来るより早く。
誰かが拾っていったことにすればいい。
そうすれば誰も、傷つかずに済む。
ただ、指先に力を込めるだけで、あの小さく細い首は、折れるだろう。
それで、全てが片付くのだ。
昼だというのに、晴れた空気とは関わりすらない様に、じっとりとした湿気を孕んだ、薄昏い細小路、先程と同じ姿勢のまま、横たわる仔猫を、仁吉は見つけた。
「……」
近づく己の、草履の下、踏みしめた砂が立てる音が、ひどく耳に障る。
そっと、その小さな身体の上に屈み込んで、仁吉は僅か、その切れ長の双眸を見開いた。
「……」
伸ばした指先、触れるのは、ひどく冷たく硬い、小さな塊。
ぼろぼろの毛並みは、艶はなく。
虚ろな眼窩は、何も映さず。
仔猫はもう、その呼吸を、止めていた。
「…ありがとうよ…」
佐助を傷つけずに済ましてくれて。
呟き、その亡骸を手に、立ち上がる。
佐助が来る前に、どこかに葬らなければ。
「せめて…ね…」
仁吉の脳裏にちらつくのは、全てが分かっているかの様にも、全てが分からぬ様にも見えた、ただ、己に起こる全てが、当然だというような顔をした、仔猫の横顔。
その前には、全てのことが、もう無意味で。
それでも、己を満たすため、「せめて」と、葬ろうとしている自分に気付き、仁吉はその口の端、嘲るような笑みを浮かべた―。
息を切らす程の早足で、急ぐ。
伝う汗も、拭う気にはなれなくて。
社の裏手、ちょうど辻から出てきた仁吉を見つけ、目が合った。
微笑され、頷けば、後はもう、足は自然と、先の細小路に向いて。
けれど、その相変わらず薄昏い影の差すその場所に、仔猫の姿はなかった。
佐助の目に、失望とも安堵ともつかない色が、浮かぶ。
「誰かが…拾って行ってくれたんだよ」
背中の言葉に、振り返れば、ひどく優しげな笑み浮かべる仁吉。
仔猫は、自分で何処かに行けるほどの、力は残ってはいなかった。
「そう…だね。きっと、そうだろうさ」
頷く、言葉に、どこか寂しさが滲む。
見届けたかったと言えば、仁吉が苦笑を漏らす。
「拾われたに違いないよ、良い人がいて良かった」
微笑いながら言えば、仁吉も、どこか安堵したように頷いた。
ゆらぐ陽炎の向こうを、眩しげに見つめながら、促すように、仁吉が歩き出す。
「帰ろう。若だんなをあまり一人にはしておけないよ…」
「あぁ」
熱い暑い日差しは、相変わらずだけれど。
仁吉が送ってくれる涼やかな風は肌に心地良く、それを意識することはもうない。
「仔猫…元気になるといいねぇ…」
「あぁ…そうさね」
呟けば、仁吉はその口の端、やはり、優しげな笑みを浮かべて、頷いてくれる。
けれど、佐助は気付いていた。
その白い指先が、僅かに、土に汚れていることを。
あの薄昏い細小路の、じっとりと湿り気を帯びた空気の中、僅かに、死の気配が残っていたことを。
「幸せに…なってるといいねぇ…」
気付いていた。
あの仔猫は、その小さな命は、もう長くないことを。
小さな腹は不自然に膨れていたし、か細い呼吸音は奇妙な音を立てていた。
恐らく、自分より先に着いた仁吉は、その亡骸を見つけたのだろう。
そして、葬った。
佐助が、見つけるより早く。
「ありがとうよ…」
仁吉には届かぬほどに小さく、零す。
気付いていた。
仁吉が、自分が傷つかぬようにと、嘘を吐いてくれたこと。
今、仁吉の瞳に浮かぶ安堵の色は、本当は違う意味を持っていること。
だから、騙されなければいけない。
気付いたと、気付かれてはいけない。
―仁吉は誰より優しいから…―
佐助の脳裏に浮かぶ、全てが分かっているかの様にも、全てが分からぬ様にも見えた、ただ、己に起こる全てが、当然だというような顔をした、仔猫の横顔。
―ごめんよ…仁吉はとても大事な人なんだよ…―
その小さな死すら、悼んでやることができない。
心の裡で、小さく詫びては見るけれど、それすらも、きっと、無意味に違いない。
耳の奥底、蘇った小さくか細い鳴き声に、佐助は一瞬、哀しげな色をその瞳に浮かべたけれど、それはすぐに掻き消えて。
何気なく、仁吉と視線が絡む。
その口の端、互いに浮かべるのは、ひどく優しげな微笑。
ゆらぐ陽炎は、失われた小さな命の上に絡んだ、二つの優しい嘘でさえ、奇妙に歪ませていた―。