「では、失礼しますよ」

 にこやかに、そう言って会釈をする藤兵衛の後ろで、控えめに頭を下げる。
 期待を含んだ視線が、背中に絡みつくのを振り切って。
 足早に歩く、藤兵衛の後を追いながら。
 つい、大きく息を吐いてしまう。

「こうも続くと、疲れるだろう」
 
 それを、聞き止めたのか。
 苦笑いで振り返られ、慌てて、首を振る。

「すみません。ご迷惑をおかけして…」

 躊躇いがちに言えば、構わないと笑われる。
 その、笑い顔が、ぎこちないのを、松之助は知っていた。
 何度も舞い込む、見合いの話に、松之助はまだ、戸惑いしか感じない。
 言われるがまま、藤兵衛の後をついて回るけれど。
 大抵、主人同士の話で、その場は終わる。
 後に残るのは気疲れだけだ。
 はらり、どこからともなく、薄紅色の花びらが、舞降りる。
 うららかな日差しは温かく。
 桜も今が盛りと咲いているから。
 道行く人も皆、何処か浮き足立っていた。
 
「少し、寄って行こうか」
 
 不意に、足を止めた藤兵衛が指差したのは、茶屋の床机。
 慣れぬそれに、僅か、困惑しながらも。
 もう座ってしまった藤兵衛に続いて、腰を下ろした。

「何でも好きなものを頼んでいいよ」
「え、あ…はい」
 
 頷いたものの。
 茶屋で団子を食べたことも無ければ、甘酒を飲んだことも無い。
 そんなのんびりとした時など、今まで無かったから。
 どう、振舞えばいいのかさえ、分からない。
 そんな、松之助の戸惑いを察したのか。
 藤兵衛が黙って、甘酒と団子を、二人分、店主に申し付けた。

「すみません旦那様」

 程なくして、差し出された温かな湯気を立てる甘酒と団子を前に、松之助は困ったように眉尻を下げる。
 
「いや…」

 そう言ったきり。
 黙って、甘酒を啜る藤兵衛。
 気まずい沈黙が、二人の間に満ちる。
 いつも、こうだった。
 ひどく、藤兵衛に迷惑を掛けていると、内心、松之助は溜息を吐く。

「店では…皆と上手くやってるのかな?」
「あ、はい。…皆良くして下さいます」
 
 頷き、気まずさを隠すように、甘酒を啜る。
 うららかな春の日差しさえ、どこか余所余所しい気がした。

「…あの……」
「うん?」

 躊躇いがちに、切り出す。
 何処かで花見でもしているのか。 
 にぎやかな声が、流れてきていた。

「すみません。…旦那様に、ご迷惑をおかけして」

 じっと、視線を落とすのは、膝の上に置いた皿に乗る、三色の団子。
 全くだと、溜息を吐かれるのが怖くて、知らず、着物を握り締めた。

「いや…構わないよ。…私がお前にしてやれる、父らしいことといえば、此れくらいだもの」

 思わず、顔を上げていた。
 不意の言葉に、目を見開く。
 その様に、藤兵衛は静かに、苦笑を漏らした。

「すまなかった…と言って、片付けるには、あまりに刻が経ちすぎてしまったね」

 ぶつかった視線が、ひどく優しい色を帯びていて。
 
「旦那様…あたしは…」

 続けたかった言葉が、宙に浮く。
 自分と、長崎屋の縁は、生まれて間もない頃に、切れているのだ。
 長崎屋には、十分すぎる始末をつけてもらっているのだから。
 決して、迷惑を掛けるようなことがあってはならないと、幼い頃より、言い含められてきた。
 だから、どうかそんな風に思わないで欲しい。
 そう、言わなければならないと、思うのに。

「…あたしは……」

 繰り返す言葉が、喉に絡まる。
 声が、震えていた。

「私はお前にも…幸せになってもらいたいと、思っているよ」

 そう言って、肩を叩いてくる手は、相変わらず、ぎこちない。
 けれど、その奥には、確かに優しさが滲んでいて。
 それは確かに、一度も与えられることの無かった、父の手で。
 それは余りに、温かかった。

「………」

 こくり、声すら出せずに頷いた松之助の、その膝の上。
 置かれた、団子の乗った皿の真隣に。
 透明な雫が二つ、落ちた。