身体が、ひどく重い。
 熱いような、寒いような、妙な心地がした。
 乾いた唇から漏れる吐息は、荒く、熱い。
 こんな風になるなんて、一体何年ぶりだろうと、ぼんやりと霞がかった頭で考える。

「粥をここに置いときますから。…今日はゆっくり休んで下さい」

 佐助の、心配そうな声に、返す苦笑も、力ない。

「すみませ…っ」

 声を出せば、それはすぐさま、咳に変わって。
 激しいそれは、喉を塞ぐ。
 じわり、涙が滲んだ。

「大丈夫ですか?」

 大きな手が、背を擦る。
 白湯を口に含まされ、ようやっと、人心地がついた。
 慣れたその手つきに、一太郎が、いかに多くの病を拾ってきたか、垣間見えるような気がして、松之助は微かに、眉根を寄せた。

「じゃあ、あたしはこれで」
「あ…さす…さ…」

 声が、巧く出ない。
 ひゅうひゅうと、頼りない音が、喉から漏れる。
 力の入らない手で、袖を引けば、佐助が小首を傾げ、振り返る。

「わか…な、には…」
「分かってますよ。内緒にしときますから」

 苦笑され、幼子を安心させるときのそれのように、きゅうと手を握られ、思わず漏らす、照れ笑い。
 小さく頷いて、もう一度、「すみません」と、掠れた声で詫びた。
 遠ざかる足音に、小さく、息を吐いて。
 お店では、もう、昼休憩は終わる頃だろう。
 それなのに、風邪なぞ拾って、床に着いている自分が、情けなかった。 
 尤も、前のお店では、咳が出ようが熱があろうが、お構いなしで働かされただろうけれど。
 枕元を見れば、同僚の手代が心配して、置いて行ってくれた生姜湯。
 ついさっき飲み干した、番頭が寄越してくれた薬に、先に佐助が届けてくれた粥が、暖かな湯気を立てていた。
 ありがたいことだと、思う。
 
―早く良くならないと…―

 思い、軋む体を、無理矢理に、起こす。
 激しい眩暈を感じたけれど、どうにか堪えて、匙を手に取り、粥を口に含む。
 ゆっくりと喉を伝うそれは、温かいけれど。
 一口、二口、口にするのが、精一杯だった。
 身を襲う眩暈に、堪えきれず、再び布団に沈み込む。
 動くたび、身体が痛い。
 
―一太郎は…いつも…―

 こんな辛い思いをしているのだろうか。
 そう、思った途端、切なさがこみ上げてきて。
 ぼろり、零れた涙に、己が驚いた。
 感情の触れ幅が、随分と激しくなっているらしい。
 
「ぃ…ち…たろ…」

 掠れた声で、音にする。
 瞼の裏側に、義弟の、白すぎる顔が、浮かぶ。
 また、涙が一筋、こめかみい、枕に染みを作った。
 
「兄さん…?」

 障子の向こう、掛けられた声に、目を見開く。
 たった今、想っていたその声に。
 どうしてと、思うより早く、身を起こしていた。
 
「開けるよ」
「駄目です…っ」

 大きな声を、出したつもりだったけど。
 掠れたそれは、殆ど吐息のようなもので。
 また、咳を引き起こす。
 急に動いた所為だろう、激しい眩暈は、頭痛まで呼んでくれた。
 それでも、震える手で、力の入らない体を凭れかけることで、どうにか、障子を押さえ込む。
 
「兄さん…っ?」

 障子の向こう、悲痛な悲鳴が、上がる。
 開けようとする手に、一層、力が篭るのが、分かる。
 松之助は懸命に、それを阻んだ。

「だ…です…う…つる…」

 咳の狭間、切れ切れに、訴える。
 頭痛は一層、激しさを増す。
 目を開けていることが、辛い。
 
「兄さん、大丈夫だから。…お願いだから開けておくれな」

 哀願めいたそれに、戸を叩く手に、何度も何度も、首を振る。
 人の二倍も三倍も、病弱な一太郎だ。
 伝染らない訳が無い。
 そう思うから、一太郎には伝わらないように、していたつもりだったのに。
 一体どうして、分かったのか。
 
「どうしても、だめ…?」

 障子の向こうの影が、微かに、身を引いた。
 悲しげな声に、こくり、頷いてみせる。
 逢いたい、とは思う。
 けれど何より、一太郎の身が大事だ。

「そう…ごめんね…じゃあ、戻るけど、此処に蜜柑を置いておくから。…喉に良いんだ。必ず食べておくれね」

 寂しそうに笑うのが、気配で、分かる。
 ちくり、罪悪感が、胸を刺すけれど。
 伝染すわけには、いかないから。
 遠ざかる足を戸を、確かめて。
 震える手で、そっと、障子を開く。
 ちょんと、置かれていたのは、鉢に入れられた蜜柑。
 午後の日に照らされた、橙色が、穏やかな光を湛えていた。
 一太郎が、己の為に、持ってきてくれたのだ。
 
「あり…と…」

 掠れた声で、呟いて。
 そっと、鉢を手に、布団へと戻る。
 その手にまた、涙が落ちた。




「………」

 そぅっと、音も無く、障子を開けて、覗き込む。
 部屋に響く、苦しげな呼吸音に、ぎゅうと、胸が締め付けられる思いがした。
 そっと、傍に寄れば、深く寝付いているのか、閉じられた瞼が、開く気配は無くて。
 きつく、寄せられた眉根が、痛々しい。

「兄さん…」

 呟いた声に、切なさが滲む。
 枕元を見れば、殆ど手を付けられていない粥と、先程己が差し入れた蜜柑が、ちょんと置いてあった。
 
―食べられないのかな…―

 それは、己には良く分かる感覚で。
 また、ぎゅうと、胸が痛んだ。
 そっと、持ってきた蛤の袷を、開く。
 つんと、鼻を通る匂いのするこの塗り薬は、喉に良いのだ。
 己が寝付いたとき、いつも、仁吉が塗ってくれるそれを、気付かれぬよう、持ち出してくるのには、少々苦労した。
 その、塗り薬を、指先に掬って。
 そっと、起こさぬように開けさせた胸へと、滑らせる。
 
「ん…っ」

 冷たいのだろう、松之助が微かに、身動いだ。
 上気し、汗ばんだ肌に、掠れた声。
 鼓膜に響く荒い吐息に、思わず、どきりと、胸が鳴る。
 そんな自分に、一太郎は己の頬が、熱くなるのを感じた。

―兄さんが苦しい思いをしてるって言うのに…―

 慌てて、薬を塗り終えると、手早く着物を調えてやる。
 すっかり温くなっていた、額の手拭を換え様と、傍の手桶に、浸す。
 冷たく冴えた水に、己の熱も、冷めていくのが分かり、ほっと、安堵の息を吐いた。
 出来る限り、固く絞ったそれを、そっと、松之助の額に、置いてやる。
 手拭で、浮かぶ汗を拭っていてやったときだった。

「ぃ…ちた…ろ…?」

 掠れた声で名前を呼ばれ、驚いて目をやれば、ぼんやりと、焦点の定まらぬ瞳が、己を見上げていて。
 
「ど…して…」
「夢だよ。兄さん」

 にこり、笑い告げてみせる。
 そっと、汗で張り付く髪を、指先で払ってやりながら。
 もう一度、繰り返す。

「これは、夢だよ」
「ゆ、め…?」
「そう。だから、私は今、此処にはいない」

 そっと、上気した頬を、指先で辿る。
 つられる様にゆっくりと瞼を閉ざす松之助が、安心したように、息を吐いた。

「よか…た」
「うん?」

 何事か、呟くのを、聞き取ろうと、耳を寄せる。
 熱く、掠れた吐息が、耳朶を擽る。

「うつ…さな…て…よか…た」
「兄さん…」

 きゅうと、また、胸が切なさに締め付けられる。
 松之助は、己の苦しさよりも、一太郎の身を、案じてくれいて。
 目の奥が、熱くなるのを堪えて、微笑う。

「大丈夫。これは夢だから…だから…」

 きゅうと、松之助の手を、握る。
 その、いつもより体温の高い手に、頬を寄せる。
 何も心配しなくて良いと、伝える様に。

「安心して、眠って良いよ」

 一太郎の言葉に導かれるように、松之助は再び、眠りの海に、意識を落とした。
 その口の端、微かに浮かんだ、嬉しそうな笑みに、一太郎も小さく、笑みを零して。
 入ってきたときと、同じぐらいに静かに、そっと、手代部屋を後にした。




 その翌日。
 一太郎の薬が効いたのか、蜜柑が効いたのか。
 兎に角、松之助は快復し、常と同じように、働く姿が、廻船問屋にはあった。
 一太郎は結局、仁吉に薬を持ち出したのが気付かれてしまったけれど。
 そのお陰で、病が出る前にと、気が遠くなるほどに苦い薬を、山のように飲まされたけれど。
 小言も、常より沢山、頂いたけれど。
 どうにかこうにか、寝付くことは無かった。
 
「兄さんっ」
「若だんな」

 休み時、休憩に使われる、お店の奥の間を覗けば、今度は拒まれること無く、柔らかい笑みを、向けてくれる。
 その声はもう、掠れてはいない。 
 佐助から、全快したとは、聞いていたが。
 言葉通りの姿に、深い安堵感を覚えた。

「風邪は…もう良いの?」

 さりげなく、手を引いて。
 二人、人気の無いお店の裏へと、回る。
 風の無い、午後の日差しは、思ったよりも温かい。

「えぇ。若だんなや、皆さんのお陰です」
 
 それでも、松之助の口調は変わらなくて。
 一太郎はそれが少し、寂しい心地がした。
 けれど何より、向けられる、元気そうな笑顔が、嬉しいから。
 そんなことは、どうでも良くなってしまうのだけれど。

「寝付いたとき、若だんなの夢を見ましたよ」

 その言葉に、一瞬、ぎくりとする。
 けれどそれは、億尾にも出さずに。
 軽く、小首を傾げてみせる。

「私の?」
「えぇ。見舞いに…来てくださってたのかな…兎に角…」

 一瞬、言葉が、途切れる。
 見上げれば、松之助が、照れたように、笑う。
 
「夢でも、逢えて嬉しかったよ」

 微かに、目元を朱に染めて。
 向けられる照れ笑いに、とくり、胸が鳴る。

「兄さん…」

 くっと、掴んだ手を、引き寄せて。
 人気が無いのはとうに知っていたから。
 掠めるように、触れ合わせたのは唇。

「若だんな…っ」

 咎めるような松之助の声に、声を立てて笑う。
 あの時は、こんなことなど、出来はしなかったから。

「夢より、現のほうが良いよ」

 笑い告げれば、松之助の目元が一層、朱に染まる。
 それでも、小さく頷いてくれるのに、一太郎はひどく、嬉しそうに笑った―。