ふと、意識が浮上した感覚の直後。
身に纏わり付いていた生理的なその感覚に、一太郎は僅かに、眉根を寄せた。
布団の中で何度か逡巡して。
結局、諦めて、身を起こす。
そうっと絡めたままの、松之助の手指を解く。
変わらぬ、規則正しい寝息を立てる横顔に、知らず、零れるのは笑み。
起こさぬように、静かに、一太郎は布団から抜け出した。
「さ、む…っ」
障子を開けた途端。
裸足の足を襲う冷気に、思わず、身を竦ませる。
すぐさま、屏風の中から羽織が投げ寄越された。
視線で、礼を言って。
冷気が松之助の頬を撫でぬうちに。
一太郎はそっと、部屋の障子を、閉めた。
「わぁ…」
厠から離れへと。
寒さに、急かされる様に戻るその足が、止まる。
真っ黒な夜空を、見上げるその頬に、柔らかに触れるのは、真白い粉雪。
すぐに、溶け消えるそれは、小さく、一太郎の頬を濡らした。
「寒いと思ったら…」
小さな呟きは、真白い吐息となって、無音の空に、吸い込まれ、消える。
しんと、冷えた空気の中。
袂から顔を覗かせた鳴家たちの歓声が響く。
闇に塗りつぶされた庭に、点々と、真白い印が、舞い落ちる。
明日は積もるかしらなんて思いながら。
頬を撫でる冷たい風に、一太郎は慌てて、離れへと急ぐ。
部屋に戻った途端、身を包む暖かな空気に、無意識に息を詰めていたことを知った。
出て行った時と同じぐらいにそっと静かに。
松之助が眠る、己の布団へと、潜り込む。
一層、暖かな温もりに、知らず、笑みが浮かんだ。
「兄さん…?」
再び、手指を絡ませようとした時。
不意に、松之助の方から、手指を絡め取られ、起こしてしまったのかと、怪訝に顔を覗きこむ。
「……っ」
応える声は、無いけれど。
ぎゅっと、強く、きつく、手指が絡む。
「ごめんよ、起こした?」
訪ねる声に、やはり、応える声は無くて。
一瞬、寝ているのかと、思ったけれど。
「兄さ、ん…?」
唐突に、絡めた手指を、引き寄せるようにして。
ぎゅっと、強くきつく、肩口に顔を埋めてくる。
常にない姿に、薄闇の中、思わず、目を見開いた。
けれど。
「兄さん…?」
小さく、絡ませたその手指が、震えているのに、気付く。
そっと、手を掛けた肩も、震えていた。
「どうしたの?悪い夢でも見たの…?」
宥めるように問いかければ、小さく、首を左右に打ち振られた。
けれど、その顔が、上げられることは、ない。
「兄さ…」
「……ったかと…」
不意に、零されたのは小さな言葉。
巧く、聞き取れなかったそれに、慌てて、耳を寄せる。
「…いなくなったかと思った…」
耳に届いたのは、震える、小さな呟き。
その言葉に、一太郎は僅か、目を見開く。
思い出すのは、松之助が今まで辿ってきた、道。
「起きたら…一太郎がいなくて…」
「うん…」
宥めるようにそっと、松之助の肩を撫でる。
常からは想像も出来ないほど、その声は、小さく震えていて。
「また、一人になってしまったのかと…」
「うん…ごめん。ごめんね兄さん」
そっと、松之助の瞼に、口付けを落とす。
ぎゅっと、絡めた手指に、力を込める。
いつも、松之助が、自分にそうしてくれたように。
不安を、払うように。
「一緒だよ。…ずうっと、ずうっと、私は兄さんと…」
小声で、耳元、囁き落とす。
寂しさを、払うように。
「だから、安心して眠っていいよ…」
その言葉に導かれるように。
松之助の吐息は、穏やかな寝息へと、変わっていった。
忙しない空気に、置き去りの自分。
何が起こったのか、良く分からなくて。
誰かの口から、聞かされたのは、母親の死。
ああ、これは夢だと、頭の片隅でぼんやりと思う。
唐突に、場面は切り替わって。
薄暗い部屋に、向かい合うのは義父。
松之助とは視線すら合わせぬまま、奉公に行けとだけ告げられる。
古びた畳の目が、何故だか記憶の底にこびりついていた。
「松之助!なにやってんだい」
きつい叱責に、振り返ればそこはもう、生家ではなくて。
狭い三畳間に、立ち尽くす自分。
どこよりも長い時を過ごした場所、東屋だった。
「あたしは…」
長崎屋で働いていたはずと、思考が、混乱する。
思い出すのは、自分に向けられる、温かな優しい微笑。
「一太郎…っ」
縋る様に名前を呼ぶ、己のその声に、目が覚めた。
薄闇の中、一瞬、夢と現の区別が、つかなくなる。
今、己がいるのは、確かに長崎屋の離れのはずなのに。
隣にいるはずの、一太郎の姿はなくて。
確かに、繋いだはずの手指は、何も捕らえてはいなかった。
「一太郎…?」
薄闇の中、呼びかけても返事はなくて。
無音の薄闇に、己の声だけが、ただ、吸い込まれ、消える。
じわり、身の裡を満たすのは、夢の残滓。
蘇るのは、不安と寂しさ。
ここへ来るまでは、そんなもの気付かなかったのに。
一度、優しい温もりを知ってしまえば、それがどれほど辛いものか、分かってしまったから。
―一太郎がいない―
意識を、支配するのは恐怖にも似た感情。
叫びだしたいほどの、不安に駆られたとき。
不意に、布団が僅かに引き上げられ、誰かが傍らにもぐりこんできた。
その体温は、誰より良く、知っていて。
そっと、触れられた手指を、咄嗟に、まるで縋りつくように。
己から、絡め取っていた。
「兄さん…?」
降って来るのは、誰より愛しい声。
ぎゅっと、きつく強く、絡めたて指に、力を込める。
確かめるように、しっかりと。
これが、現のことであると、己に分からせるように。
「兄さ、ん…?」
ぎゅっと、きつく強く、肩口に顔を埋める。
触れ合った箇所から流れ込んでくる体温を、確かめるように。
夢の残滓を、振り払うように。
どれぐらい、そうしていただろう。
肩を撫でてくれる手が、落とされる口付けが。
ゆっくりと、松之助の中の、恐怖にも似た感情を、取り払ってくれた。
「一緒だよ。…ずうっと、ずうっと、私は兄さんと…」
それはひどく、愛しい言葉。
誰より何より、愛しいと思える、言葉だった。
「だから、安心して眠っていいよ…」
きゅっと、絡めた手指に、力が篭る。
ひどく優しい声音に、導かれるように。
松之助は、己の意識を、手放した。
そこにはもう、不安も寂しさも、何一つ無かったから。
あるのはただ、温かに優しく、愛しい想いだけだった―。