痛い程に冷えた空気に、屏風のぞきは無意識に、裸足の爪先を擦り合わせる。
戸板も、障子すらも開け放った部屋は、火鉢の頑張りも無意味になる程、寒い。
「ほら、外に出るなら襟巻きをきちんと巻いて」
守狐の言葉も右から左。
暖かな襟巻きが、その細く白い首を覆うか覆わないかの内に。
おたえは遊びに来た仔狐たちと、真新しい雪に包まれた庭に、駆けだして行ってしまう。
「ったく…何だかんだでまだまだ子供だねぇ」
呆れたように言う守狐の横顔は、けれど、どこか嬉しそうだった。
「雪なんて寒いだけだろうに…」
ぼやきながら、寒がりな憑喪神は、堪えきれずに守狐を抱え込む。
冷え切った指先を、暖かな毛皮に差し込めば、ようやっと、人心地がついたような気がした。
庭では、雪だるまだの兎だの。
小さな塊が、朝の陽に白銀に煌めく。
赤くなる鼻先も構わずに、おたえが南天の実で、盲目の兎に赤い目を与えてやる。
最近ようやっと、半妖態に化けることを覚えた天空が、その幼い人の手で、ぴんと伸びた深緑の葉を、立派な兎耳に見立てれば、おたえから嬉しそうな笑い声が上がった。
「着物を濡らすんじゃないよ」
縁側から叫ぶ守狐の声も。
聞こえているのかいないのか。
幼子は雪玉に夢中。
剣呑な色を孕み始めた視線に気づいたのか。
天空が慌て、おたえの袂を後ろで持ち上げる。
そんな様に、一先ず、納得したのか。
己の胸に背中を預けてきた守狐に、屏風のぞきから小さく、笑みが零れた。
「お前が行って持ってやりゃあ良いだろうに」
「嫌だよ私は。毛皮が濡れちまう」
何より、この場を動きたく無いと、守狐は胸の内で、呟く。
「雪は水より冷たいらしいしね」
続いた、何気ない言葉に、そういえばこの憑喪神は雪になんぞ触れたことがないのだと、思い出す。
「…そういやぁお前は雪に触れたことが無いんだっけね」
「当たり前だろう。きらきらしてるが、ありゃ水だろう?解けちまうよ」
雪溶けの庭を思い出したのか、顔をしかめる屏風のぞきの視線に、庭で跳ね回る狐たちに対して、どこか、羨望の色が滲んだ気がした。
「難儀だね」
「別に」
見上げ、笑えば、反らされる視線。
ふと、思いついて。
「守狐…?」
市松模様の腕をすり抜けて、降りるのは庭先。
爪先を濡らす雪に軽く顔をしかめながら、変化を掛ける。
半分とは言え、人の身にはより一層、寒さが凍みた。
おたえに半ば無理矢理、いつもより一枚多めに羽織を着せたのは正解だったと、ぼんやりと思う。
人の手で、掬うのは庭石に積もる、真新しい雪。
軽く、指先で握れば、小さな塊になるそれは、今この時にも、溶け出し、守狐の掌を冷たく濡らす。
「守狐?何やってんだい?」
縁側から半身を乗り出す市松模様を振り返って、向けるのは微笑い顔。
「口、開けてみな」
「………?」
疑問符を顔に張り付けたまま小首を傾げるのには答えてやらずに。
「ほら」
おたえにする時と同じ様に、己の口を開く。
「あー…」
ほとんど釣られるように。
口を開けた屏風のぞきが、まるで幼子のそれのようで、思わず、漏れそうになった笑いの代わりに、手の中の小さな団子を、開けられた口の中に、放り込む。
「ひゃ………っ」
屏風のぞきの口の中。
それはまるで干菓子のように、簡単に溶け消えてしまったけれど。
口の中に広がる、澄んだ冷たさが、どこか心地良い。
「何だい…?」
己が飲み下したのは何なのかと、視線で問えば、手足の雪を手拭いで丁寧に拭いながら、守狐が笑う。
「雪だよ」
「は?」
目を見開けば、狐に戻った守狐が、腕の中に潜り込んでくるから。
一先ず、抱きかかえてやる。
「お前、飲むや食うやは平気だろう?」
「だから雪を食わせてやったんだ」と続く言葉に、屏風のぞきは一層、その切れ長の目を見開いた。
「どうだった?初めての雪は」
問いかけられ、そういえば己は、目の前に広がるきらきらを飲み込んだのだと、今更のように自覚する。
じわり。
胸のうちに沸き上がるのは喜び。
けれど、それを気取られるのは少し、悔しい様な心地がするから。
「なんであんな冷たいのを、皆が好むかわからんね」
気のない答えを返したのに。
どうしても、口の端があがってしまう。
「そうだねぇ」
守狐も、屏風のぞきの真意はきっと、気付いているのだろう。
真白い尾が、嬉しそうに、揺れる。
「一層寒くなっちまったよ」
言いながら、守狐の左右の耳の間、柔らかな毛並みに、顔を埋める。
きゅっと、抱き抱える腕に力を込めれば、重ねた手を、撫でる尻尾が心地良い
。
「それじゃあ飴湯でも頂こうか」
「良いね」
顔を上げた先。
まだまだ未熟な天空の、変化が解けた所だった。
雪にまみれた仔狐が、ふるふると身震いすれば、細かな白銀が、きらきらと陽光に散る。
「さぁさ。雪遊びは仕舞だ。冷てしまったろう、入っといで」
ふわり、鼻孔を掠める甘い匂い。
おたえも今度は、素直に守狐の言葉を聞き入れた。
「ほら」
「ん…」
渡された湯のみが、常より温かく感じるのは、雪のおかげか。
思い出す、澄んだ冷たさが、口に含んだ飴湯と溶け合う。
それはとても、優しい味。
「ねぇ、屏風のぞき」
呼ばれ、顔を上げれば、赤鼻の幼子と、目が合った。
黒目がちの大きな瞳が、ふわり、笑う。
「雪って、良いね」
その言葉に、何故だか、えらく素直に、微笑ってしまった。
もう閉じてしまった障子の向こう。
白銀は、相変わらずきらきらと輝いているのだろう。
「あぁ。そう、さね」
とん、と半身にもたれ掛かる守狐の瞳が、ひどく優しく、微笑った気がした。
その日。
屏風のぞきが生まれて初めて触れた雪は、ひどく冷たくて。
ひどく、優しかった―。