ふと、意識が浮上する。
 何の気無しに、髪を掻き揚げようとして。
 己の手が、傍らの温もりを抱いているのに、気付く。

「………?」

 思わず、閉じたままだった眼を、開いていた。
 そこには確かに、己の腕の中、穏やかに寝息を立てる犬神がいて。
 確かに、背中合わせに眠っていたはずなのに。
 その、まだ骨身がちな身体を、白沢の腕は、しっかりと抱き込んでいた。

「………」

 そんな、己の所作に、少なからず戸惑いながら。
 そっと、起こさぬように、腕を解く。
 途端。

「ん…」

 微かに、身じろいで。
 離れた温もりを追いかけるように、身を寄せてくる犬神に、白沢は僅かに、目を見開く。
 そうっと、もう一度。
 腕を回せば、小さく、白沢の夜着の袂を握る犬神。 
 他者ならきっと、不快に振り払うはずなのに。
 一夜の相手さえ、事が済めば必ず、褥から追い出した。
 そう言えば、誰かと眠りに就くこと自体、随分と久しいことだと、思い出す。
 夜毎、過去の悪夢に涙し、飛び起きる犬神を宥め、落ち着かせていくうちに、慣れてしまったのだろうか。
 己の無意識下の行動に、だた、疑問符が沸く。
 けれど、腕の中の体温は、決して不快ではなくて。
 そんな、自分自身に戸惑いながら。
 白沢は、再度訪れた眠気に、思考を明け渡した。



 うつらうつらと、犬神の頭が、舟を漕ぐ。
 その様に微かに、笑みを零して。

「眠いんなら寝てなよ」
 
 最近、すっかり馴染んだ、いつもの言葉を投げかけてやる。
 
「う、ん…」

 頷く声が、もう、危うい。
 敷きっ放しの布団の上、こてんと身を預けたとおもったら、もう、寝息が聞こえてきていた。
 背中に、その気配を確認して。
 手に入れたばかりの書物に、視線を落とす。
 最近、ようやっと、落ち着いたと思ったら。
 犬神は一日の殆どを、寝て過ごす様になった。
 まるで、今までの、不穏に眠れなかった日々を取り戻すように。
 それほどまでに落ち着いたのだと、何処かで安堵している自分に気付き、ふと、昨夜のことを思い出す。

「白沢殿」

 巡りかけた思考に、手の中の書物から顔を上げた途端。
 欄干越し、揺れる、白い影。
 背中を振り返れば、深く眠り込んでいるのか、犬神が目を覚ました気配は、無かった。
 その様に、ゆるく、笑みを浮かべて。
 視線で示せば、いつの間にか半身を人に化けた守狐が、頷いた。
 
 
「犬神殿もずいぶん馴染んだ様ですね」
「ん?あぁ…そうみたいだね。…一時はどうなるかと思ったが…」

 穏やかな日差しに満ちた庭の片隅。
 老木の根元。
 腰を下ろした守狐の眼が、白沢を見上げ、ひどく面白そうに、笑った。

「何です」
「いや?…貴方も随分馴染んでるようだ」

 その言葉に、白沢は一瞬、怪訝に眉根を寄せる。
 そう言えばと、思い出すのは昨夜のこと。
 馴染んだ、のだろうか。
 自分が、犬神と言う存在に。

「まぁ…そうかもしれない、ね」

 不意の言葉に、土産だと持ってきた饅頭を自分で頬張りながら、守狐が興味深げに見つめた。

「おや。何か自覚する出来事でも?」
「うん?ああ…」

 昨夜の出来事を、何気なく話したつもりだったのだが。 
 見下ろした守狐の、細い目が、驚いた様に見開かれていて、白沢が驚いた。
 
「何です。その眼は」
「何って…貴方…。そりゃあ驚くでしょう」

 怪訝に眉根を寄せれば、守狐がその細い指先で、ついと、白沢の胸を指す。

「貴方の此処が、誰かを想うのは随分久方ぶりなんじゃないですか?」

 笑みを履くその薄い唇の向こう。
 真白い尾が、揺れる。

「は?」
「そういうことでしょう。つまり」

 笑う守狐に、白沢は呆れた様に溜息を吐く。

「犬神はそんなんじゃあ…」
「無いと言い切りますか?」
「ええ」

 頷く白沢に、守狐はただ、面白そうに笑うだけ。
 
「まぁ、そういうことにしておきましょう。けど…貴方があんな風に笑ったところを、私は久方ぶりに見ましたがね」
「…そう、だったかね」

 知らず、手が口元を覆う。 
 そうですよと、一言、言い終えて、守狐は、立ち上がる。
 
「まぁ、誰かと仲良くするのは良いことだ。貴方は他人を拒絶しすぎるきらいがあるから」
「余計な世話だ」
 
 不満げに鼻を鳴らせば、守狐が声を立てて笑う。
 犬神と食べろと、いつの間にか随分と数が減っている饅頭を押し付けて。
 真白い姿は、老木の影に消えた。




 簀子を渡る道すがら。 
 反芻するのは、守狐の言葉。 
 指先で、なぞるのは己の唇。
 笑って、いた。確かに。
 それも、ひどく自然に、穏やかに。
 握りこんだ手指に、蘇るのは昨日の温もり。
 自分より少し高いそれは、決して不快ではなくて。
 何より、眠りを共にするほどに、己の裡深くに、犬神と言う存在を招きこんでいると言う事実。

「白沢?」

 不意に、名前を呼ばれて。 
 顔を上げれば、部屋の内から、犬神が顔を覗かせていた。
  
「あ、ああ…。起きたのかい?」
「うん。…起きたら白沢がいなかったから」

 その言葉に、思わず、漏らすのは苦笑。
 ふうわり、白沢の指先が、犬神の頭を、撫でる。

「何処に行くって言うんだい。あたしは此処にいるよ」
「うん」

 耳の根元を掻いてやれば、心地良いのだろう。
 無意識に擦り寄るような仕草を見せながら、犬神が安堵したように、笑った。
 その屈託のない笑い顔は、ひどく、人を惹き付ける。
 自分も、そのうちの一人なんだろうかと、白沢は思う。
 
「良かった」
「うん?」

 唐突な言葉に、小首を傾げれば、犬神が、笑う。

「白沢がいて、よかった」
「………っ」
 
 向けられた、笑い顔に、思わず、息を詰める。

「そう、かい?」
「好きだからね。白沢のこと」

 邪気の無い笑い顔のまま。
 告げられた言葉に、とくり、胸が騒ぐ。
 他意は無い。
 分かっては、いるのだけれど。

「守狐殿の言った事は、本当なのかもしれないね…」

 何しろ千年も、片恋のままだったから。
 他者を思うどころか、まともに関わることすら、本当に久しくて。
 己の心持すら、わからない。

「………?何か言ったかい?」

 小首を傾げる犬神に、ゆるく、首を振って。
 白沢は手の中の包みを、示した。

「守狐殿が来ていてね。饅頭を置いて行ったんだ。食べるだろう」
「ん。…守狐殿に礼を言わなきゃあ…」
「もう帰ったよ。…お前が寝てる間に」

 揶揄する様に笑いながら、包みを渡す。
 ほんの少し、ばつが悪そうに睨みつけてくるその頭を、ぐしゃり、かき乱して。
 茶でも淹れようと、促す。

「起こしてくれてもいいだろう」

 小さく、零す様に、喉の奥底、押し殺すのは忍び笑い。
 この胸の裡の感情は、まだ分からないけれど。
 それでも、今はこの空気が、心地良いから。
 それだけで十分だと、思う。

「犬神」

 茶を淹れる手首を、掴む。 
 急須から逸れた湯が、派手に零れた。

「…っ!っの馬鹿、危な…」
「いなよ。此処に」
「え?」
 
 顔を上げた犬神に、向けるのは、笑み。
 
「ずっと、いなよ」

 犬神の目が、大きく、見開かれた後。

「うん」

 ひどく嬉しそうに、笑った。