「何処行ってたっ?」
 玄関を潜るなり、飛んできた拳。
 重たいそれをまともに受けて、倒れこむ。
 咄嗟に食いしばった歯は、けれど成人男性の力には敵わず、割り開かれて口腔内を裂いた。
 口の端から伝い落ちた血が、白いニットを転々と汚す。 
 あーぁ…気に入ってたのに。
「何だよその顔…お前なんか俺の子供の訳が無いんだっ」
 どこかの昼ドラの様な台詞。
 殴られた頬が、鈍い痛みと熱を孕み始める。
 起き上がろうと腕を立てたその顔を、顎の下から蹴り上げられた。
 見知りと、骨の軋む音を聞く。
 蹴り上げられた顎よりも、脳天に痛みが走る。
 目の前に、一瞬、白い光が走った。
「お前さえ生まれなきゃあ…死ねよ。死ねよっ」
 その後、二、三度、あたしを蹴り上げて男は気が済んだのか、リビングに戻っていった。
 よろめきながら立ち上がると、足元で外から入ってきた小石が、タイルとブーツの間に挟まれて、じゃりっと耳障りな音を立てる。
 部屋中に満ちている咽返る様なアルコールの香りから逃れるように、自室に駆け込む。
 机の引き出しを、壊れるくらいに勢い良く開けると、一番手前にあった剃刀を引っ掴む。
 そのまま何度も何度も、左腕に刃を滑らせた。
 うっすらと埃の積もった床に、ぽたぽたと赤い点が散る。
 腕の上で何度も交錯する、鋭い痛みと、熱。
 自分で選び取ったそれに、あたしはただ涙する。
 これはあたしが感じる唯一のリアルだから。
 これはあたしが与える罰だから。
 親を殺そうなんて考えた、親を憎んでしまったあたしへの罰。
 あたしがあたしに下す死刑執行。
 そして、あたしがあたしに下す、唯一の許し。
 剃刀を机の上に放り投げると、ベッドの上に倒れこむ。
 大量の埃が舞って、シーツに血が付く。
 けれど全てが億劫で、もうどうでも良い。
 蛍光灯が照らし出す室内に、視線を巡らせる。
 机にイス、クローゼットにこのベッド。
 帰ってきたままの状態で投げ出されている学校の教科書や脱ぎ捨てた服。
 白々と明るいそれは、全部が嘘くさい。
 リアリティの欠片も、感じられない。
 傷がもたらす痛みだけが、唯一、あたしと現実を繋ぎ合わせている。
 目を閉じる。
 殴られた箇所が、蹴り上げられた箇所が、熱い。
 でも、そんなことはもう慣れた。
 あの男の怒声も、暴力も、その後ろでひどく冷めた目をしている女の視線も。
 全部全部、もう慣れた。
 この家は、誰もが皆独りきりで、誰もが皆被害者面をしたいのだ。
 アホ臭い。
 何もかも。あの男も、その影に居る女も、未だにあの男に希望を見出そうと、この家を捨て切れていないあたしも。
 何もかも全て、アホ臭い。
 反吐が出そうなほどに。
「……」
 枕の下から別の剃刀を取り出して、もう一度強く、力を入れて切った。
 切れ味の良いそれは、ぱっくりと皮膚を裂いて、その下の白い肉を露にさせる。
 その下にうっすらと見える青白い血管は、直ぐにあふれ出てきた赤い血に隠れて見えなくなった。
「ははっ」
 楽しくて楽しくて、嬉しくなって声を立てて、一人で笑う。
 心が凪いで行くのが分かる。
 あぁ化粧を落とさなきゃ…。
 でも、今はそれすらも億劫で。
 まぁ良いかと、溢れ出て来るリアルを抱えて、あたしは眠りの海に、意識を投げ打った。
 

 大好きなバンドの、歌声で目が覚める。
 無意識の内に、枕元を弄り、ケータイを探す。
 手にしたそれが指し示す数字は、起床時刻。
 アラームを止めると、急に鋭い痛みが、左腕に走る。
 見れば、どす黒く変色してバリバリに乾いた血が、あたしの左腕を覆っていた。
 化粧を落とさずに寝たものだから、顔全体が重苦しい。
 肌が荒れているのは、見なくても分かる。
「…」
 溜息。
 頬も、相変わらず鈍く痛み、熱を孕んでいる。
 きっと、腫れている事だろう。
 そっと部屋を出て、バスルームに向かう。
 熱いお湯で、乾いた血を流せば、鮮やかに赤い線が幾筋も姿を見せる。
 あたしの唯一の、存在証明。
 罪の証。 
 あたしがどんな人間か、忘れないように。
 顔を上げ、頭から降り注ぐシャワーのお湯を、まともに浴びる。
 頬と言わず額と言わず、全身を濡らすこのお湯で、溺れ死ねたら一体どんなに素敵だろう。
 夜になって、もしかしたら明日の朝かもしれないが…あたしの死体を見つけたあの二人はどんな顔をするだろう。
 想像しただけで、喉の奥から笑いが込み上げて来る。 
 完全に狂っていると、自分でも思う。
 けれどそんなことは、別にどうでも良い。
「…」
 でも、それは夢。
 現実は、死ねないで足掻く自分が居るだけだ。
 シャワーを止め、ついでに思考も中断する。
 バスタオルを洗濯機に放り込むと、制服のシャツを羽織ってドアを開ける。
 手早く支度を済ませ、この腐った家を後にした。

「おはよう」
 背中から掛けられた声に、笑顔を用意して、振り向く。
「おはよう」
「久しぶりだね。良かった来てくれて」
 にこやかに掛けられた言葉に、曖昧に笑う。
 白々しい。
 こんな言葉をかけてくるのだって、今が冬だからでしょう?
 あたしの傷が見えなければ、彼女達は笑って声を掛けてくる。
 見えれば、遠巻きに異端な物でも見るような目で見てくる。
 兎に角彼女達は、あたしが傷さえ作らず、ただ笑って居れば満足なのだ。
 だから、あたしは笑う。
 わかっていても、彼女達を手放したくは無いから。
 偽善的で優しい彼女達を、愛おしいと思う。
 温かい家庭の、日向の臭いのする彼女達の傍に、居たいと思う。
 たとえそれが幻想でも。
 たとえ本当はあたしは独りきりだとしても。
 久しぶりの学校は、相変わらず単調で。
 誰もが皆人の目を気にして過ごしてる。
 アホ臭い。
 単調な教師の声に、誘われるまま眠りに落ちる。
 組んだ腕の上に顔を伏せると、微かに左腕が痛んだ―。


            続く