ごろりと、板の間に転がりながら呟く。
「暇だなぁ…」
 声に出して呟いた途端、それは急に現実味を帯びて自分に覆いかぶさってきて、口にしたことを少し、後悔した。
 固い感触が、背骨に当たり、少し痛い。
 ぼんやりと天井の板の目を数えながら、ひどくゆっくりとしか進まない、時間を潰す。
 やる事が無いわけではないのだ。
 言い付けられた書き覚えも、手本の横に添えられた紙は白紙のままだし、人形をとる鍛錬もしなくて無いならない。
 術だって色々覚えなくてはならないし、覚えなければ次の段階には進めない。
 けれどその全て、どれを取っても毎日毎日繰り返されることばかりで、いい加減飽きてくる。
 まだ隣に付き添ってくれる者がいれば、張り合いもあるし、褒められればやはり嬉しいのでやる気も出るのだが・・・。
 生憎ここ数日、生みの親でもあり、師でもある大師は、遊説とかで留守がちだ。
 外に出ようにも、人形が長い時間取れない自分には無理な話で、それ故に大師の供も出来なかった。
「・・・・・」
 そっと背伸びして蔀戸から外を覗けば、広大な庭が目に入る。
 ゆっくりと規則正しい動きでそこを横切るのは、箒を手にしたまだ歳若い少年僧だ。
 掃除も修行の一環なのだろうか。
 御坊と言うのは大変だなとぼんやりと思いながら、視線を引き剥がす。
 再び戻した視界は、当たり前だが代わり映えが無い。
「・・・」
 溜息を一つ付いて、文机の前に置かれた円座に腰を下ろす。
 筆を執ると、教えられた通りに精神を集中させ、ゆっくりと紙の上に降ろして行った。
 
 することが無いのだから、出来ることをするしかない。
 いつもと同じ結論に行き当たって、結局、いつもと同じ作業をこなす。
 この部屋には訪ねて来る者など居ないし、訪ねて行く者も居ない。
 大師がこの部屋に結界を張り巡らせているからだ。
 外に出ることも出来ないが、外の厄介ごとが入ってくることも無い。
 生まれたときから強大な力の備わった犬神は、他の式とも、弟子たちとも、馴染めなかった。
 というより、向こうが一方的に恐れ、拒絶していた。 
 それ故、力が自分で使いこなせるようになるまでと、大師は強大な結界をこの部屋に布いたのだ。
「まぁ、いきなり獣の耳と尾が生えた奴が現れたら、皆気味が悪いだろうしね・・・」
 大師を追って此処へ来た時の、あの不躾な視線を思い出し、犬神はその瞳にほんの僅か、寂しげな色を滲ませながら、苦笑した。


「がみ・・・犬神・・・」
 揺り起こされ、己を呼ぶ声に、がばりと身を起こす。
 この部屋で自分の名を読んでくれる人など、一人しか居ない。
「大師様っ」
 声に、隠し切れない嬉しさが滲む。
 微笑する大師の手が、そっと頭を撫でてくる。
 その心地よさに、思わず目を細めた。
「何だって板の間でなんか寝てたんだい?体を痛くするよ?」
 苦笑交じりのその言葉に、己がうっかり居眠りをしてしまったことを知り、気恥ずかしくなり、視線をそらす。
 周りを見渡せば、蔀戸の外はもうすっかり暗くなっていた。
「悪かったね、ずっと放っておいて」
 その態度を、留守番をさせられたことを拗ねているのかととった大師に、犬神は慌てて首を振って否定する。
「ち・・・違います。あの・・・居眠りしたみたいで・・・」
 必死に言葉を紡ぐその姿に、また、大師から苦笑がもれた。 
「うん。退屈だったろう。・・・今日は月が綺麗だから、久しぶりに外に出てみようか」
 その言葉に、犬神の表情が、ぱっと輝いた。

 久々に吸う外気は、やはり心地よい。
 霊山と呼ばれるだけあって、己の体に気が満ちてくるのが分かる。
 木々の葉を照らす銀の月光は、大師の言うとおり、ひどく美しかった。
 先に立ち、妖の目で夜の闇を見据えながら、大師の手を引いて歩く。
 犬神と居るから不要だと、大師はいつも灯りを持たないから。
 その行動を少し心配に思う反面、信頼を置かれていることが、やはり何よりも嬉しかった。
「今日は京まで降りてみようか」 
 思いも寄らぬ言葉に驚いて振り仰ぐと、楽しそうに笑う顔が、自分を見下ろす。
「犬神の足ならすぐだろう?」
「でも・・・人に見られたら・・・」
 まだ、そう長くは人形が取れない自分の姿を気にする犬神。
「大丈夫。こんな夜遅くに出歩く人など居ないし、人は夜目は利かないから」
 笑って請け負う大師に促されて、犬神はまだ幼さの残る、線の細い、筋張った背中に、自分の身の丈よりも高い、大師を背負う。
「それじゃあ行きますよ?」
「たのむよ」
 背中の声に、犬神は地を蹴り、文字通り風のように木々の間を駆け抜けていった―。

 
                           続く